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フィロソフィア マスターベイション

アレスト!

 良く晴れたある日。僕は優雅にも庭で午後の紅茶を洒落こもうとしていた。
「おい!」

 いきなり後ろから声がした。何だ? と思いながら振り替えると、やたらと緊張した面持ちの男が三人、立っていた。
「何ですか、あなたたちは。
 勝手に人の庭に入ってきて……。不法侵入で訴えますよ」

 すると後ろに控えていた、かなり年配の男がズイと前に出てきた。何やら書いてある紙を突きつけるようにして僕に見せた。ついでに黒い手帳も。
「内田隆則だな、十五時二十三分。お前を逮捕させてもらう。これはその逮捕状だ」

 逮捕状? こんな薄っぺらい紙が? と、言うことは、この黒っぽい手帳は……まさか警察手帳! 間違いない、これがあの、菊の御紋が入った警察手帳なのであろう。
 僕は冷静に判断していたつもりだったが、意に反して怒鳴ってしまう。

「な、なんなんですか、これは!
 悪い冗談だ。
 私が何をしたと言うんだ!」

 立ち上がりガーデンテイブルを力強く叩く。その拍子に気を落ち着けると言うラベンダーのハーブティーがひっくり返った。
「う、動くな!!」

 真後ろからの声にたじろぎ、一瞬凍り付く。ゆっくりと後ろを振り返る。若い男が銃を腰だめにして僕を狙っていた。多分この若い男も警察の人間なのであろう。彼の持つその銃はカタカタ、カタカタと震えていた。
「わ、解りましたよ。動きませんからその物騒なものを引っ込めてくださいよ」

 トリガーに指を掛けている。この位置からじゃ安全装置が外れているかどうかなんて解らない。まあ、それ以前の問題として、安全装置がどこにあるかなんて知りもしないのだが。ただ、今本当に分かっているのは、下手なことをしたら撃たれてしまうであろうと言うこと。いや、下手なことをしなくても暴発しかねない。

 始めに声を掛けてきた、年配の男が僕に指示を出した。
「ゆっくりと手を横に広げろ」

 言われた通りにする。若い男の持った拳銃の銃口はピタリと……ではないが、未だ僕の方を向いていると言うことには変わりが無い。
「動くなよ」

 ドスを聞かせた声で僕を脅し、年配の男がゆっくりと歩み寄ってくる。僕の足を蹴っ飛ばすようにして肩幅に拡げさせ、服の上から身体中をバシバシと叩いた。
「凶器類はどうやら持っていないようだな」

「持っている訳無いじゃないですか。ここは日本なんですよ。アメリカなんかじゃあないんだ」
 彼は僕のことを完全に無視した。

「んっ、これは……」
 彼は僕の上着のポケットからティースプーンとスティックシュガー。そして煙草とライターを見つけ出した。

「これはなんだ」
「何って、見れば解るじゃないですか。紅茶を飲もうと思っていたんですよ」
「……おい、保管しとけ」
「そんな物を取っておいて、一体何になるんです?」
「お前は黙ってろ」
「だいたい、一体全体僕が何をしたと言うんですか。何も悪いことなんかしちゃいませんよ」

 彼は片方の口の端を不自然にあげて言った。
「みんなそう言うんだよ、最初はな」


ブラインド

 気が付くと僕は取調室の中にいた……なんてことは勿論なく、聴衆に見守られながら威勢良くサイレンを鳴らすパトカーに乗せられ、若い警官に小突かれながらこの狭い部屋に押し込められたのだ。
『結構明るいもんだな』

 僕の中のイメージにおいて、取調室と言うものは暗く、陰鬱な感じがするものと思っていたのだが、実際は、サンシェードの隙間から見えるワイヤ入りの窓から西陽が差し込んできていて、結構明るいのだ。いや、眩しいと言っても過言ではないだろう。
 しかしながら……嫌らしいことに事務机とスタンドは、やっぱりあった。
 そして臭い。
 匂いを言葉で表すのは非常に困難なことではあるのだが、なんというか、カビ臭いような、背広臭いような……。どこかしら粉っぽい匂いがこの部屋を占領していた。
 少し息苦しい。
 なるべくだったら早めにこの場から退散したいものだ。

「オイ」
 脂ぎった中年の男が、顎を2センチほど動かして、椅子に座れと言う意思表示をした。僕は出入り口の近くに座った。 「オ、オイ。そっちじゃ……まあ、いいか」
 どうやら僕は座る場所を間違えたらしい。しかし構わないと言うのだから、気にしないことにする。
 中年男が机を挟んで向かい側に座った。彼の脂ぎった顔は強烈な西日を受けてギラギラと光を反射していた。

「名前は?」
 中年男が書類に、眼を通しながら言う。
「何でそんなことを聞くんです? 名前も分からずに僕を逮捕したんですか?」
「屁理屈をこねてんじゃねえ!
 お前は聞かれたことに対し素直に答えてれば良いんだよ!」

 僕は渋々と自分の名前を言った。
「そう、そうやって最初から素直に答えてりゃ良いんだよ」
 中年男は満足そうにそう言った。この後、職業や年齢、家族構成などを聞かれた。先程ちらりと見えたのだが、この男の持っているのはどうやら僕の戸籍抄本のようだ。なぜにそんな事を聞かれるのか、ますます解らなくなる。戸籍を見れば、全部書いてある筈なのだ。わざわざ聞く間でもないだろう。

 僕はこの場所が不愉快だった。斜め前の、少し離れたところで何かを筆記している男のペンがカツカツ鳴るのも不愉快だったし、目の前の中年男のギラついた顔。そして何より仁丹臭い息を、この密閉した空間で吐かれるのには耐えられそうになかった。

「――― 。
 これで一応事務的な質問は終わりだ」

 中年男はそう言って煙草を取り出し、百円ライターで火をつけ、天井に向かってその煙を吐いた。
 フゥ――
 中年男はタバコをゆっくりと吸っている。
 若い男は姿勢を崩すようなことはなく、相も変わらずペンを持ったままで紙と対峙している。

―― 五分くらい経ったであろうか。中年男は二本目のタバコに火をつけている。

 もう外は暗くなっているのではないだろうか。この位置からだと外が見えなくて良く解らない。もうだいぶ前から机の上のスタンドには光が点してある。少し、いや大分眩しい。そのスタンドは僕の顔に向けられているのだ。スタンドを被疑者にむけるのは、精神的苦痛を与えるためだとかいう話をどっかで読んだような気がする。ここも、どうやら取調室らしくなってきた。

―― 二十分くらいは経っているんじゃないだろうか。中年男は相変わらずタバコを吹かしていて、狭い部屋の中は、大分けぶったくなっている。一体いつになったら帰れるのだろうか。中年男はタバコをふかすのが仕事であるかのように黙々と煙草を吹かし、若い男は若い男で微動だにせず、ペンを握って紙と対峙している。幾ら僕が暇な人間とはいえ、くにで養ってもらっている人間達とは比べ物になるほどではない。奴等はタバコをふかすのが仕事かもしれないが、僕のような人間がそんなことをしていたら、たちまちオマンマの食い上げである。やり残してきた仕事もある。

「あの……。」
「なんだ?」

 中年男は如何にも煩わしそうに上体を起こした。しかし、その仕種には待ってましたと言わんばかりの気配が見え隠れしている。
「あの、いつになったら帰して頂けるんですか?」

 中年男はスタンドの反射光の中、薄笑いを浮かべながら言った。

「あん? 何、言ってんだお前。
 お前は任意同行してここに来てるんじゃないぞ。お前は逮捕されてここにいるんだ」
「つまりどういう事ですか」
「何だ? お前には常識が無いのか?
 任意同行の場合は、帰れる。しかしお前は逮捕されてここにいる訳だ。つまり、お前の帰る先は刑務所か墓場だけだって事だ」

 なんてことだ!
 今までなるたけ正直に、でしゃばり過ぎたりしないように生きてきたと言うのに!

「私が何をしたって言うんです!」
 思わず立ち上がり大きな声を出す。

「なんだと? 何をしたかだと?」
 中年男はゆっくりと立ち上がり顔を近づけた。

「お前は自分の罪に点いて何も知らないとでも言うのか。しらばっくれるのもいい加減にしろ!
 座って、自分が今までどんな酷い事をしてきたのか、もう一度良く考えてみるんだ。
 もうネタは上がっているんだ。本当に隠しおおせるとでも思っているのか」

 中年男は押し殺した声でそう言った。
 僕の顔にかかる仁丹の息は臭く、匂いが移ってしまうのではないかと思うほどだった。


ルーム

 僕は署内の、いわゆる『留置場』と言うところに連れてゆかれた。本当はそんな名前ではないと思うのだが、とりあえず地下にあるカビ臭い部屋に監禁されている事は事実である。しかし、本当に地下室があるというのは驚きだ。
 部屋の中は狭く、汚らしい便器からは悪臭が漂っている。どうも換気が悪いらしく、空気がもったりとしているような錯覚をうける。
 はっきり言って気持ち悪い。
 壁はコンクリートで出来ていて、白いペンキで塗ったくられている。
 ドアは鉄格子……で、出来ていたらどんなに良かったろう。ドアは分厚い鉄製で、小さな覗き窓(ここだけが鉄格子だ)だけが、この部屋唯一の換気の役目を果たしている。

―― いったい、いつになったら帰れるのだろうか。
 もしかしたら一生このままなんじゃ……

 怖い考えが頭をよぎる。
 自分で何をしたのか知らないのだ。いついつになったら出られる、そんな保証はどこにも無いのだ。
 出来る事なら正直に、すべての罪を償いたい。しかしながら犯罪を自供しようとしても、どのような犯罪を犯したかという概要さえわかっていないのだ。それがわかるまで下手な事は言えない。いや、言う事も出来ないし、言っても笑われるのが関の山なのだが。

―― タバコが吸いたいな ――

 僕は大きなため息と共に、そんな事を考えた。


プラシーボ

 汚いベッドに寝そべり、味も素っ気も無いような白い天井を見ながら思いを巡らす。
 なんで僕は捕まってしまったのであろうか。幾ら考えても解らない。
 考えはどんどん悲観論的(ペシミスティック)になってゆく。

『こんなんじゃ駄目だ』

 僕は、ダレに言うでもなく、一人つぶやいた。もっと楽観的(オプティミスティック)に考えてゆかねばなるまい。
 僕は今、留置場にいる。外に出る事が出来ない。だがしかしどうだ、家に居た時によるになってから外に出る事などあったであろうか。否、ほとんど無かったハズだ。TVも新聞もあまり見ないし、横になりながらくだらない事を観想(テオーリア)していただけだ。つまるところ、現時点の状況でも普段とさほど変わらない訳であって、状況が同じならばどう捉えても構わない訳だ。まあ、多少便所臭く、カビ臭いが、普段の僕の部屋よりも片付いているし、うるさい暴走族の音も聞こえない。
 これはこれで、結構良いのかもしれない。
 僕は静かに思いを巡らせ始めた。


テオーリア

  いったい、何が起こったというのか。
  いったい、僕が何をしたというのか。

 盗み。まさか、中学の時の万引き程度(程度というのも変だが)で今ごろ捕まるとは思えない。もう時効であろう。だいたい万引きぐらいで、こんなトコに入るというのも不自然じゃないか。
 詐欺……まあ、確かに嘘はつく。しかし、絶対的に嘘を付かない人間などいる訳が無いのだ。

 それに僕が嘘をつく場合は軽いジョーク感覚の、まったく悪意の無い嘘であって、まさか訴えられるほどの嘘を付いた事があるとは思えない。
 しかしながら『悪意の無い嘘』というのは僕の思っている限りの、いわゆる『主観的な』見解であって、客観的に、嘘を付かれた当人にとってどうかなんて正確には解らないのだが。

 傷害……これはまず無いと言えるだろう。最近喧嘩をした覚えなんて、まず無い。人を指した覚えも無いし、ぶん殴った覚えも全く無い。だいたい気の弱い僕が喧嘩なんてする訳が無い。中学を卒業してからというもの喧嘩なんて一度もしていないのだから。
 殺人……これもまず無い。この僕が人殺しをする訳も無いし、出来るとも思えない。

 それでは、僕は、いったい、何をしたのか。
 思考は同じ所をグルグルと廻り、僕は混乱、困惑、発狂を抑え込むのに精一杯だった。


リアル

 朝、スピーカーから流れるラジヲ体操の音で目が覚めた。やけに頭の中がすっきりとしている。ぐるり見廻す。
 やはり夢ではなかった。僕は留置場の中にいるのだ。
  コトリ
 ドアの方で音がした。みると朝飯 ―― バタ付きトーストと、コーヒー ―― が、置いてあった。昨日は気が付かなかったがドアの中腹ほどにそのための穴があったのだ。そこから入れられたのであろう。
 『冷や飯を食らう』とは、こんな事なのかも知れない。トーストは冷たく、バターの膜が張っている。カップに入ったコーヒーは冷たいよりも、少しだけぬるいに近いと言うだけであって、間違ってもホットコーヒーとは呼びたくないような代物であった。
『まだ有罪と決まった訳でもないのに、酷い仕打ちをするもんだな……』
 僕は一人ぼやいた。
 冷たいトーストを冷めたコーヒーでムリヤリ胃に押し込み、流し込んで一息つく。

 タバコが吸いたい。

 切実にそう思った。禁煙なんてしたくなかった。
 何故にこんな事になってしまったのであろうか。何故に僕は捕まってしまったのであろうか。

 僕はまた、昨日と同じ事を考え始めた。


マスタ・ベィション

 何故僕は捕まってしまったのだろうか。
 何か悪い事でもしたというのか。
 ……多分、そうなのであろう。何か「社会」にとって不利益な行動をとってしまったが故に、この『社会から隔離された場所』に連れてこられたに違いないのだ。

 『社会』。つまり社会とは『人々の集まりによって構成され、ある一定の規範を人々同士の間で設け、そのルールに従う者のみを選択し、再構築されていったされていった世界』である。当然の事ながらその社会規範に適合できずにドロップ・アウトしてしまう者もいる。しかしこの僕が、そのアウトサイダー側に廻ってしまうなんて!
 社会から……社会的動物である筈の人間と言う規範から、外されてしまうなんて。
 僕は今まで堅実に生きてきたつもりだ。至極平凡な生活を営み、育んできたつもりだ。いや、正確には『つもりだった』になるのであろう。しかしそんなことを言ってももう遅いのだ。実際にもう、ドロップ・アウトして(捕まって)しまったのだから。
 ……多分、何か法に抵触してするような事をしたから捕まった筈だ。果たして、僕は法に触れるような事をした事があったであろうか。

 いくら考えても解らない。
 いくら考えても答えに辿り着けそうに無い。

 とりあえず、僕が何か罪を犯したと仮定してみよう。
 それはどんな罪でも良い。罪をおかしたと仮定するのだ。
 僕は罪を犯した。
 どんな罪かはハッキリとしない。だが、、ここにこうやって監禁されている以上、何か罪を起こしたと言うのは事実なのであろう。
 しかし何てことだ! 罪を犯した覚えも無いのに罪を犯したと仮定しなければならないなんて。罪を犯ていたとしてもそれに気が付いていないなんて!


オーガズム

 ……………。
 もしかしたら、それこそが本当の罪なのかも知れない。たとえ法に触れていないにしても、社会規範を踏み越えていてそれに気が付かないという事。その罪は間違いなく大きいであろう。
 だがしかし。僕以外の人は、自らが犯した罪と言う者に気が付いているのであろうか。

 原罪 ―― アダムがエバにそそのかされて食べてしまった禁断の果実。罪の果実。

 それだけでは無い。たとい原罪と言うものが存在しないとしても、人は罪を犯さずに生きてゆけるものなのであろうか。僕は何かを食べながら、消費しながら生きている。つまり、動物や植物を殺し、その死骸・死肉によって生きている……否、生かされているのだ。虫も殺さぬような顔をしながら、平気で、動植物の死骸をついばんで生きているのだ。人間どもの生命とは、その他多数の尊い生命を踏みにじる事によって成り立っているのだ。人は罪を犯さずに生きてゆくことなど出来はしないのだ。

―― 人の子よ! 滅びるがいい! ――

 だがしかし。罪を犯す事が本当の罪であるかどうかは、それぞれの、その後に行動にもよるのではないか。そうじゃないか、他を殺す事が罪ならば、人は皆、咎人になってしまうではないか。
 もし……もし他を殺したとしても。つまり他の生命の生き延びてゆく可能性を起ち切ってしまったとしても、殺した側の生命がそれに見合うだけの行動を為せば、その罪は罪で無くなるのではないだろうか。
 果たして僕は、罪に見合うだけの行動をしてきたのであろうか。僕の罪は償えているのであろうか。
 多分その罪は償い切れていないのではないか。罪を償うに値する行動とは、そう、正直に生命活動を行う事なのではないか。  言葉が悪い。
 つまり生きて行く事に疑問を感じてはいけないのだ。それは果たして、今まで生かさせてくれてきた魂達への冒涜なのでは無いだろうか。

 僕は怖い ―― 本当に生きていて良いのか。
 僕は問う ―― 本当に生きていて良いのか。

 怖いんだ。生命活動を行う事が。そして、それによって蓄積されて行く僕の罪が。

 助けてくれ!
 助けてくれ、神よ!

 ……ハン。無理だな。神とは罪に対する罰の執行者であって、救済者ではない。そして何より、僕は神を信じていない。
 ……刑を受けよう、甘んじて……。

 どのような罪を犯し、どのような法に触れ、どのような処罰を受けるのか。
 そんな事は関係ない。
 実際的に僕は、罰に見合うだけの行動をし、罪を背負ってきてしまっているのだから。僕が僕を許す事が出来ないのだから。


スペルマ!

『被告、前へ』
 此処は裁判所ではない。何故ならここには陪審員がいない、傍聴人がいない、そして何より、弁護士がいないのだ。しかし、ここは裁判所でもあるのだ。判事せきがあり、告発者がおり、被告人(僕だ)がいる。
 つまるところこの形式は私刑(リンチ」)なのであろう。
『被告・内田隆則。あなたはこの席上において虚偽を申し立てたりすると、詐称罪・法廷侮辱罪などで有罪になる事があります。

 『あなたはこの席上において真実のみを話す事を誓いますか』
 《真実》か……。面白い。
『被告! 誓いますか』
「はい。私、コト内田隆則は、この席上において真実のみを話す事を誓います。
 裁判長!
 私、コト内田隆則は、内田隆則の有罪を真実であると宣言します。

  ターン ターン
 木槌が二回、打ち鳴らされる。

「被告、内田隆則は、聞かれた事のみを答えるように。また、この席上において全ての発言は記録されます。被告自身の不利になるような事について、被告は発言を拒否する事が出来ます。よろしいですね。被告、席へ戻ってください」
「いや、喋らせてください。人間は喋る事によって、言葉を解する事によって人間足り得るんだ。人間が喋る事を許されないなんて、それこそ弱い葦のようなものだ。僕は喋る。喋る事によって人間になれるのだから」

 裁判長は困ったような顔をした。多分このような私刑(リンチ)を執行するのは、彼としてもあまり乗り気ではないし、馴れてもいないのであろう。
 だいたい、私刑(リンチ)なのだから廷吏でもなんでも使って口を塞ぐ事くらい訳無い筈なのだ。だが、普段の裁判で被告の発言権を無効にする事などまず無いので戸惑っているようだ。僕はここぞとばかりに喋り出した。

「良いですか、裁判長。私は、私が私であるために、私こと内田隆則に死刑を求刑致します。
 被告は《生》への渇望を持たず、サナトスばかりを夢に描くような男です。あまつさえ被告はサナトスを、死への渇望というものを、内田隆則を内田隆則たらしめんがためにつかい、人間足らしめるために使っているのです。
 確かに、内田隆則は人間で在り続けることに成功したかのように見えました。しかしながら内田隆則は生物で在るというレゾンテートルに失敗したのです。内田隆則は死物も同然なのです。破壊を望みながらアポトーシスしないキャンサーと同じようなものなのです。キャンサーに対抗するためには切除、つまり死を与えるべきなのです。アポトーシスをしないヒーラを集めたとき、人間を作ることは可能でしょうか? 否、不可能です。つまりヒーラは既に人間ではなく、生物で在りながらも無生物でも在るわけなのです。これと同様に内田隆則を集めても社会を形成することは不可能であり、結局できうるのはただの、キャンサーの固まりみたいなものなのです。使命を忘れたゲノムの集合体なのです。
 そう、僕は生命を維持し続けてはいるものの利己的な遺伝子の命令……そう、本能たるミームの増殖という目的を忘れた男なのです。つまり生命を持ってはいるものの生命足り得ていないのです。

 そう僕は……
 僕は、どんな小さな生き物。ゾウリムシやヒーラよりも下等なモノなのです……」

 ここまで言ったとき、僕は己がいかに小さなものかを知った。虫が這ったような痒みを頬に覚え、無意識に手をやった。
 僕の指先は濡れていた。

―― 僕は泣いているのか ――

 朧げな視界で裁判長席を見やると、苦渋に満ちた……いや、僕を蔑んでいるのかも知れない、そんな男が僕を見下ろしていた。

   ターン
    ターン

 裁判長が二回、木槌を鳴らした。
 そして僕に判決が下される。


========用語辞典========
アポトーシス 細胞の自殺
オーガズム 性的絶頂。オルガスムス
キャンサー ガン細胞
ゲノム 遺伝子情報
サナトス 死への欲望
仁丹 ナポレオンマークの入った臭い奴
オジサン用フリスク
ジーン 遺伝子
スペルマ 精子。
テオーリア 観想。静かにものを考えること
ヒーラ 正確にはヒーラ細胞。一種のガン細胞なのだが、、、
これは、自分で調べることをお勧めする。
フィロソフィア 哲学者
プラシーボ 偽薬。空実験をする時に使う奴と一緒。
マスターベイション  自慰。オナニー
ミーム 模倣子。遺伝子の子供。
レゾンテートル 存在意義(本当はこの言葉は使いたくなかった)

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