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ASEANと外資

 ASEANは1967年8月8日の「バンコック宣言」によって成立した地域経済協力機構である。これは、南アジア、アフリカ、中南米にもみられる途上国間、いわゆる南南協力の経済協力機構である。近年、ASEANは一般的に他の経済協力機構よりも成功している。しかし、ASEANは成立から順調に協力関係を進展してきたわけではない。

 当初、ASEANは成立から9年間は協力関係を進展させることができなかった。1975年のインドシナ3国(ヴェトナム、ラオス、カンボジア)の解放に危機感を抱き、反共政権として結束を迫られ、1976年2月にバリ島で第1回ASEANサミットが開催され、それがASEANの経済協力の実質的な出発点となった。

 第1回と第2回のASEANサミットにより、貿易においてASEAN特恵関税(PTA、1977年)、工業においてASEAN工業プロジェクト(AIP、1976年)とASEAN産業補完計画(AIC、1981年)の各協定が締結された。しかし、これらが今日のASEANの経済成長をもたらしたのではない。

 それはこれらの協定が基本的にASEANの自立的経済形成政策、つまり輸入代替政策であったからである。PTAは域内貿易を活発にすること、AIPは1国では実現困難なプロジェクトを協力して推進すること、AICは具体的には”ASEAN自動車構想”である。

 しかし、これらからほとんど成果を得ることはできなかった。

 ASEANの今日の経済成長をもたらすきっかけになったのは1987年の「マニラサミットの共同宣言」である。その共同宣言では、PTAの改善とAIJVの拡充が取り決められた。AIJVはASEAN合弁事業協定とも言い、1983年に締結された。それは、民間の自主性を尊重し、域内の活性化のために域外の外資企業の参加を認めていこうとするものである。これは、言い換えれば多国籍企業への門戸開放である。ASEANは以前から比較的外国資本に対して開放的で、1960年代以降のASEAN経済においてそれは大きな働きをしてきたが、工業分野の域内経済協力にも参加を認める方向を打ち出したのはこれがはじめであった。

 「マニラサミットの共同宣言」は1980年代半ばにASEANが直面した国際経済の悪化を乗り切るための1つの方法であったし、今日の経済成長の基本的な路線を作ったものであったが、もう1つの方法、ASEAN結成当初の理念である集団的自立路線の放棄でもあった。そして、この共同宣言の最大の受益者は多国籍企業である。多国籍企業は現地で利潤の追求のために活動し、時には利潤追求の妨げとなる共同規制措置等を挫折に追い込んだ。

 ASEANは結成当初の地域経済協力機構としての機能を次第に失っている。このような指摘は以前からあり、”政治的な力によって経済協力への努力が妨げられた地域協力機構の好例”と形容されたりもした。しかし、現在ではより大きな地域経済協力機構であるAPECの中に埋没し、実質的に消滅してしまうかもしれない事態になろうとしている。他国籍企業はより自由でより大きな市場を求めている。しかし、そういった場で巨大資本に対して効果的な規制措置を執れなければ、労働の超搾取や環境破壊を引き起こすことになるであろう。

 ASEANは現在急速に経済発展をしているし、1人あたりGDPも大きな伸び率を維持しているから格差の問題はあるが国民全体は確実に豊かになっている。それは現在取り得る最善の策でいいことなのではないかと考える人がいると思うが、それに対しては再びこう尋ねる。確かにGDPは大きく伸びているが、ではその伸びた分だけ確かに国民生活は向上しているか。地域経済は現地に住む人々への視線が1番大事なのではないかと思う。


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