森田ゼミ96年黒旗福助トップ

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 福助14号 
発行所 :Y.H.アカデミー
パトロン:森田ゼミナール様

自由か平等か  山路博之

 断っておくが、これから述べることが絶対ではない。「そんなこと言われなくてもわかっている」と思うのだが、どうもこのような断り書きをしておかないと不安になる「御方」がいるらしい。だが、ここでその「御方」の詮索をする気はまったくない。何故なら、これから述べるテーマの本質とはまったく関係ないからだ。

 さて、「自由か平等か」、これは人類の長い間のテーマとされている。何故そのようにいわれているのか。それは、人間が社会生活の営みを送る上で、このテーマを考えることが非常に大事なものとされてきたからである。何も大げさに、このテーマについて、全員がそれこそ不眠不休で考えてきたといっているわけではない。ただ、人間なら誰しも「幸せな人生を送りたい」と、一度くらいは考えたことがあろう。そのことについて話しているわけである。つまり、「いかにして幸せな人生を送るか」と考えた時に、「自由か平等か」というテーマにいきつくわけである。

 ここで断っておきたいことがある。それは、幸せな人生を送る上で、必ずしも自由や平等を考える必要はないのである。つまり、人によって幸せの捕らえかたは違うし、当然自由や平等という概念が必ず「幸福」につながるものでもない。ここで私がイイタイのは、「人間の幸福を考える時に、“自由か平等か”という切り口で考えてみるのも可能である」と、述べているわけである。くれぐれもこの切り口が、絶対なものとして捕らえてもらっては困る。あくまでも、一つの切り口として理解してもらいたい。 さてこれで、「山路は、“自由か平等か”という切り口で、“人間の幸福論”について話していくのか」ということがわかってもらえれば、幸いである。

 まず最初に述べておきたいことがある。それは、自由と平等が共存する社会はありえないという点である。つまり、自由な所に真の平等はなく、同様に平等な所に真の自由はありえないのである。それをあたかも両立するものと考え、そのような「桃源郷」を追い求めようとしているのが、今の民主主義・社会主義・共産主義国である。

 賢明な人達なら、とっくの昔に知っていることであろう。だが、知らない人には言っておく必要がある。真の自由と平等の両方を兼ね備えた社会は存在しない。もしも、両方を兼ね備えた社会や地域が存在するとしたら、それは明らかにまやかしの世界である。まずもって、真に自由と平等の両方を兼ね備えた社会はありえない。理由は二つある。第一に、何をもってして、「この社会が自由でかつ平等なのか」という点である。第二に、自由と平等は相反する関係にあり、両者は両立できない。そのことについて、以下で説明していく。

 まず、何をもってして「真の自由や平等というのか」と、疑問をもたれている方もいるであろう。私も疑問である。ここで私が、「これが真の自由であり、平等です」と、熱弁をふるったところで詮無いことである。何故なら、これこそ正しいと思っていても、その反対方向にはそれと同じくらいの真理が存在しているからだ。残念ながら、今我々が抱えている多くの疑問(問題)に対して、限りなく真理に近づくことはできても絶対の結論には至らないものが多々ある。その考えや決断が正しいかどうかは、まだ見ぬ未来の大学者に判定を委ねる他はない。当然、今考察しているテーマも同様である。

 ここまで述べると、皆さんの中には、「明確な答の出ないことについて考える必要があるのか」と、おっしゃる方もいるだろう。たしかに、答がでないものについて考察をしていくのは意味のないようにみえるかもしれない。しかし、わからないことを考えていくのも学問ではないだろうか。既成の事実として存在しているものを、暗記したり積み重ねて発表することを学問というのであろうか。そういうのは勉強である。学問というのは、疑問に思ったことを調べたり、未だ解明されていない人間や宇宙の分野に光をあて、そのことについて解釈を加えていくことではないだろうか。少なくとも、そういう学問を通じて人格の形成をはかるのが本学の建学の精神だと、私は思っている。

 要するに、今の我々にとってはどうしても現在解決しなければならないものがある。その一つに、「自由か平等かによって、人間の幸福を考えること」が、解決しなければならないものと私には思えた。この問題に取り組み、少しでも真理に近づき、自分にとって幸福な人生が送れれば、まさに儲けものである。たとえ他人から、「そんな不純な動機で学問をする奴があるか」と言われようが、「私の人生ほっといて」と開き直っておこう。自分のために学問を追求しようとする行為が、「不純である」といわれた日には開き直るしかない。まあ、水田先生も大目に見てくれるであろう。それとも、甘い考えであろうか。これ(自分の得になるからという考えで行う学問探求は不純であろうか)については、また今度考えることにしたい。

 次に、第二の理由の説明である。何故、自由と平等は相反する関係にあるのか。それは、両者のもつ性質が相手を受け入れないような形状になっているからだ。それも、両者の性質を強めれば強める程、顕著に現れる。

 具体的な例で示すと以下の通りである。例えば我々の住む資本主義(民主主義)の社会においては、一見すると自由と平等が保障されているかに見える。しかし、本当にそうであろうか。例えば、「男女雇用機会均等法」という法律がある。これなども、「教室では禁煙」という「張り紙の論理」と同じで、依然として日本における雇用状況では男女差別があることを物語っている。又、アメリカでは銃や麻薬の規制が行われ出している。一概にこの両者(銃と麻薬)を同じように扱えないかもしれないが、少なくとも自由という概念をはき違えて暴走するアメリカ国民が増えていることを物語っている。

 このように一般には、自由と平等が保障されている国においてすら、未だ自由と平等の共存社会が形成されていないのである。又、深刻な失業やホームレスの問題を抱えているイギリスやフランスにおいても、まやかしの自由と平等を国民が享受しているようでならない。何故なら、深刻な失業やホームレスの問題を解決するには平等な雇用の確保を、政府が提供する必要がある。そのためには、社会における自由を犠牲にし、たとえ非合理的な方法にせよ、雇用を確保する上では法の制定による規制もやむを得なくなってくる。果たして、このように自由を犠牲にして成り立つ平等社会を、市民は受け入れるであろうか。

 以上、二つの理由からわかることは何か。そう、一つの地域社会においては自由と平等の共存はありえないのである。つまり、真の自由と平等の両方を兼ね備えた社会は存在しない。では、どういった社会が存在するのか。

 一つの地域社会においては、「自由と平等という両者の共存はありえない」ことは理解してもらえたであろう。二つの共存の道は不可能でも、一つだけを押し進めることは可能である。つまり、ある地域社会においては、真の自由という概念を追い求めた社会ができ、同様に別の地域社会においては、真の平等という概念を目指して形成された社会が存在可能なわけである。但し、ここで注意しなければならない点が二つある。第一は、自由や平等という概念をはき違えないことである。第二は、第一の点を踏まえ、自由や平等に対する同じ価値観をもった者同士が社会を築いていくことである。

 具体的に、自由と平等を押し進める社会の形成手順は別の機会に譲ることとする。今回のテーマで、私がイイタカッタコトは二つある。

 第一に、自由と平等が共存する社会はありえないことである。第二に、自由と平等という概念をはき違えず、さらに共通の価値観を持つ者同士によって、それぞれ別の限りなく自由な地域社会や平等な地域社会を形成することは可能である。

 以上が、評論形式で綴った「自由か平等か」に関する私の意見である。尚、「こんな意見を述べたのは自分が最初であろう」等と、少々高飛車になっております。そこで、「君の意見はすでに○○さんが述べていることだ」で教えてくれますと、助かります。又、当然のごとく、賛否両論の意見をお待ちしております。