森田ゼミ96年トップ

マルクス・レーニン主義欠陥説

 第一説について考察する。この説の特徴は、マルクス・レーニン主義の理論そのものに重大な欠陥があったとするところにある。マルクス主義理論の中心的課題は、資本主義経済批判であった。国家が資本制様式を採用し是認する限り、労働者階級は資本家階級に搾取され続け、決して解放されることはない。したがって労働者階級の真の解放のためには、資本制様式を廃止し、資本家階級を地球上から消滅せしめ、まったく別の新しい生産様式を導入する必要があると考えた。マルクスの理論はプロレタリアートの解放が目的であった。単純化していえば、プロレタリアート解放のため、資本制様式を廃止し、ブルジョアジーを消滅させるのである。

 まずここに、ひとつ大きな疑問、欠陥がある。つまりプロレタリアート対ブルジョアジーの対決という単純な図式でしか理解し得なかったことである。経済現象のみに着目するならば、一九一七年当時のロシアにおいて、プロレタリアート対ブルジョアジーの利害関係は、まさに対立のみであったといえよう。しかしプロレタリアートの経済的利益確保のために、資本制様式そのものを全廃するという思考は、次の二点で批判されなければならない。ひとつは資本制様式の全廃すなわちブルジョアジーの地球上からの消滅にともなう多大の犠牲、いまひとつは全廃後に導入される新生産様式の効率の是非である。この全廃論は、しかしながら、レーニンによって多分に拡大解釈された可能性がある。なぜならマルクス自身は、高度に議会主義が発達した状況においては、別の思考も認めているからである。ではいかにしてプロレタリアートの利益を獲得するか。ここで道は、ふたつにわかれる。急進主義の道と漸進主義の道である。ロシア十月革命は急進主義の道であった。というのは、もし二月革命の段階で革命が停止していたならばどうであろうか。おそらくロシアは漸進主義の道をあゆんだことであろう。しかし歴史はそうならなかった。ロシアにおける社会主義政権は、急進主義の道でなければ成立し得なかったのである。このことは社会主義理論の中に、力による革命、軍事力の行使をともなう革命論が含有されていることを意味する。一九一七年十月革命後に、ロシア全土で展開された内戦をみれば十分理解されよう。力による政権争奪は、権力確立後において必然的に反対勢力による政権奪還、もしくは反革命の危険にさらされることになる。したがって常に反対勢力に対して警戒と弾圧を継続することになり、政権の安定性を欠く結果となる。よってマルクス・レーニン主義の特徴である力による社会主義政権樹立は、すぐれた思考とはいえない。

 ロシアにおける新生社会主義政権は、レーニン主義の基本「全権力をソヴィエトヘ」のスローガンにみられるごとく、いわゆるプロレタリアート独裁をその目標とした。このことはプロレタリアートの前衛である共産党が排他的に全権力を掌握することを意味し、これを批判したり、これに代る政党が活動したりすることは、すべて禁止される。ここに共産党による一党独裁体制が確立する。ソヴィエト社会主義共和国憲法は次のように規定していた。

 第六条「ソ連邦共産党は、ソヴィエト社会の指導的、先導的勢力であり、ソヴィエト社会の政治体制、国家機関と社会組織の中核である。ソ連共産党は、人民のために存在し、人民に奉仕する。マルクス・レーニン主義の学説で武装した共産党は、社会発展の全般的な見通しをたて、ソ連邦の内外政策の方針を決定し、ソヴィエト国民の偉大な創造的活動を指導し、共産主義の勝利をめざすソヴィエト国民のたたかいに計画性と科学的裏づけを付与する。すべての党組織はソ連邦憲法の枠内で行動する」一九七七年一○月七日、第九期ソ連邦最高会議第七次臨時総会採択、(     )。

 いうまでもなく、いかなる政治体制も完全無欠ということはあり得ない。常に反対勢力による批判に理解をしめし協力を得ることによって、政権を安定的に運営しなければならない。しかし連邦憲法第六条は、「指導的」かつ「先導的」勢力として共産党を位置づけ、「中核」であると規定している。この条文によって党は、すべての批判を否定し、絶対的権力を保持するにいたった。ロード・アクトンの言葉を引用するまでもなく、「権力は腐敗する」ものであり、「絶対的権力は絶対的に腐敗する」結果となる。第六条により、マルクス・レーニン主義の学説によって理論武装した党は、国家の立法権、行政権、司法権の上位に優位する。したがって、このような体制下では、個人の基本的権利が保障されないばかりか、党の指導に誤りがあった場合、これを是正する手段方法がまったくないことになる。なぜならば党を抑制する党の存在が許されないからである。ここにマルクス・レーニン主義としての社会主義理論に重大な欠陥が内在するといわざるを得ない。これが、もうひとつの問題点である。すなわち、ひとつは急進主義の道を選択した結果として、地球上から抹殺されるブルジョアジーの犠牲、もうひとつは独裁党の誤りをふせぐための政権交代のルール、この二点に対する明確な解答を社会主義理論は、しめしてくれないのである。

 次に生産様式に関してみると、資本制様式を全廃して、所有形態を私有制から国有制または社会的所有制に変革するという。この変革がもたらすものは、生産から配分までのすべての分野で、党の指導による国家管理が行われるということである。ソヴィエトの場合、計画経済の中枢はゴスプランであった。要するに、社会主義経済理論は、いわゆる「経国済民」の理論ではなく、単なる「統治理論」にしかすぎない。レーニンの「新経済政策」以降のソヴィエト経済史が、その事実を物語っている。資本主義を否定し、資本主義を乗りこえ、資本主義に優位する社会主義社会が、実は資本主義体制よりも劣る生産しかなし得なかった事実は、中央集権型計画経済体制に大いなる問題があったということになる。ソヴィエトの経済機構が生産よりも配分重視であったことも、失敗の一因といえよう。かつて小泉信三が「共産主義批判の常識」として指摘したように、いかに配分を重視し、配分の制度を充実しても、配分すべき生産が配分に追いつかなければ何の意味もないのである。社会的必要性、国民の経済的要求を無視した国家計画経済体制は、社会主義理論の三番目の大きな問題点であるといわざるを得ない。暴力革命の必要性、一党独裁体制、国家計画経済体制、これらは社会主義理論の主たる特徴であった。これらの特徴が、欠陥として顕在化したにもかかわらず、欠陥を是正し、欠陥を乗りこえることが出来なかったところに、この理論の批判されるべき点があるといえよう。社会主義政権崩壊後の研究として、次の傾聴すべき見解がある。

 「ロシア革命を契機に、社会主義は単にイデオロギーから体制になり、レーニンによって基礎が作られスターリンによって発展させられたソヴィエト型社会主義体制は、プロレタリア独裁、生産手段の国有化や社会的所有、農業の集団化などを特徴とする社会主義体制を建築していった。(以下略)しかしながら、ソ連が構築し世界に提示した社会主義モデルも、またソ連のイニシャティヴによって発展した「社会主義共同体」という名のソ連ブロックも、実際には魅力に乏しく、ソフト・パワーとしての影響力を十分には発揮し得なかったことは、結局ソ連が「解放」し、ソ連の軍事的圧力のもとにあった国以外では社会主義が発展しなかったこと、そしてソ連の強い影響下にあった東欧諸国ですら、社会主義体制は半世紀ももたなかったことから明らかであろう(以下略、吉川元「ソ連ブロックの形成と衰退」、『激動期の国際政治を読み解く本』所収、一三七−一三八ページ、一九九二年七月一日初版、学陽書房)。

 「プロレタリア独裁」、「生産手段の国有化や社会的所有」、「農業の集団化」は、「スターリンによって発展させられた」という。一九八○年代半ばより、衰退の一途をたどるソヴィエト社会にあって、ゴルバチョフを中心とする党最高幹部は、決して手をこまねいていたわけではない。社会主義再生の戦いが展開された。しかし再生は同時に欠陥の克服であって、克服は社会主義崩壊への道となったのである。崩壊を単にフルシチョフの農政失敗やブレジネフの無策、ゴルバチョフの路線逸脱などで理由づけることは出来ない。根本原因の指摘にならないからである。崩壊の原因を論ずるためには、社会主義理論そのものに内在する矛盾に目を向けなければならない。

 東ヨーロッパ諸国の崩壊は何が原因であったのか。ポーランドの場合、社会主義政権成立の過程は、第二次世界大戦末期から大戦後にかけて、ソヴィエト軍の軍事援助を受けたポーランド共産党によって政権獲得が行われた。その方法はルブリンに本拠地をおく「ポーランド国民解放委員会」が、ソヴィエトの軍事占領地域拡大にともなって、解放区を拡大し、解放区における全権力を掌握するという方法であった。一九四五年一二月、モラフスキーを中心としたポーランド臨時政府は、ソヴィエトの援助と承認により成立した。ポーランド共産党としての統一労働者党は、反対党に対しては、ソヴィエトの軍事力を背景に弾圧し、独裁体制を確立した。それゆえ新政権は、真に国民の支持を得たとはいえない。国民の支持を獲得出来ない政権が不安定であることは、いうまでもないことである。一九四五年一月に土地改革、一九四六年一月には基幹産業国有化が決定され、大戦後およそ三年ほどで、ポーランド統一労働者党の一党独裁体制が確立し、農業集団化と国有化が行われた。しかし経済発展は望めず、崩壊直前の対外累積債務は六百億ドルを超過する結果となった。ヤルゼルスキーはワレサの「連帯」に敗北し、社会主義政権としてのポーランドは崩壊したのである。

 チェコスロヴァキアでも、ソヴィエト軍の解放の結果、共産党のクーデターによって、一九四八年二月、独裁制が確立した。農業集団化、産業国有化が実施され、生産手段の私的所有は完全に消滅した。社会主義経済体制が確立したにもかかわらず、経済の不振は解決されず、本来の経済力が発揮されることはなかった。一九六八年八月のチェコ事件後は、国民のあらゆる階層から社会主義体制に対する批判がおこり、力による自由化運動抑圧は不可能となった。チェコでの社会主義政権崩壊は、もともと自由主義国家であったにもかかわらず、一方的に戦車で社会主義を押しつけられたことへの反撥が大きい。プラハ郊外のパンクラーツは、まさにチェコのバスチューであった。ドプチェクによって提唱された「人間の顔をした社会主義」は、チェコ事件から二○年後に、ドプチェク自身によって本来の自由主義国家へと復帰したのである。

 ハンガリーでは社会主義化はどのようにして行われたのであろうか。ハンガリーは第二次世界大戦で枢軸国側であった。ドイツ軍を駆逐するソヴィエト軍は、ハンガリー全土を占領し、占領軍支援下で、一九四四年一一月、ハンガリー最初の社会主義政権がデブレッエンで成立した。しかし一九四五年十一月の総選挙で共産党は敗北した(得票率17%)。その後、ソヴィエト軍の露骨な選挙干渉という支援により、一九四九年五月の総選挙では、共産党は第一党となった(得票率95%)。いわゆる単一リスト制選挙方式の採用の結果である。ラコシは党の独裁制を確立し、徹底した工業化と農業集団化を行った。その結果、ハンガリー経済が直面したものは、労働の生産性低下、インフレ、貿易収支の悪化であった。もはや社会主義政権下での再生は不能となった。改革派の民主化要求に対し、党は受け入れざるを得ず自滅したのである。

 ルーマニアの場合はどうであったか。ルーマニアも第二次世界大戦は、最初ドイツ側で参戦した。大戦中に共産主義者を中心とした反ドイツ戦線が結成され、解放軍としてのソヴィエト軍を迎え入れ、ルーマニア共産党が独裁政権を獲得する道をあゆんだ。中心的指導者はゲオルギウ・デジであった。デジの独裁下で、社会主義経済体制が急速に実施され、一九四八年六月、基幹産業国有化、同一二月には個人企業を含むすべての企業国有化が達成された。一九四九年三月、土地改革法制定により、農業地国有化、集団農場化が実施された。デジの後継者であったニコラエ・チャウシェスクは、徹底した工業優先政策を採用したが、コメコン内部の国際分業制で、ルーマニアの位置が農業生産部門に割りあてられたため、工業化は停滞し、農業集団化も計画通りには実現しなかった。集団化完成が宣言された一九六二年の段階で、ルーマニア労働人口の大半(60%)が農業従事者でありながら、農業生産のGNPに占める率は低い数字(30%)であった。農業集団化の生産性の低下を物語る実例である。まさに農業問題は、ルーマニア経済のアキレス腱であった。その原因が農業の強制的集団化であったことは自明である。もっとも、社会主義政権崩壊時には、ルーマニアの対外累積債務は完済(1)されていた。完済のためルーマニア国民は、日々の食生活まで極端に切りつめた生活を強要された。労働者階級解放を目的とする社会主義は、特権階級擁護の体制と化した。チャウシェスク銃殺の背景には、国民の根強い反共感情があったのである。党独裁による社会主義化路線は、国民の徹底した反共活動のもとに音をたてて崩壊した。

 ユーゴスラヴィアでは、共産党成立のプロセスが他の東ヨーロッパ諸国とは多少異なっている。一九四四年一二月、ソヴィエト軍はユーゴ領内に進駐を開始した。同時に首都ベオグラードは、チトーのパルチザンによってドイツ軍支配から解放された。ユーゴ共産主義者同盟の名でユーゴ共産党書記長に就任したチトーは、同志としてソヴィエト共産党の全面的支援を受けていた。しかしパルチザンの支配権をめぐって、チトー対ミハイロヴィッチの対立は激化の一途をたどり、妥協は不可能であった。対立の背景には、すでに民族問題も台頭しつつあった。結果は、セルビア人であったミハイロヴィッチが、クロアチア生れのチトーに敗北し粛清された。このパルチザンこそユーゴの解放者であったとチトーは力説する。同志チトーは大戦終結時、戦後予測されるソヴィエトのユーゴ支配を察知し機先を制した。結果として、ユーゴに対するソヴィエトの直接的支配は、チトー生存中はおよばなかった。チトースターリンの憎悪の的となり、社会主義共同体の一員として認められず、一九四八年六月、コミンフォルムより除名されるにいたった。しかしユーゴ共産党の目標が、ユーゴの社会主義化であることに変りはない。チトーの反共分子粛清は織烈をきわめた。ユーゴの社会主義経済体制は、ソヴィエト型官僚主義の非能率を克服するため、国営企業も労働者自主管理方式を採用した。いわゆるユーゴ型として一部の社会主義者が礼讃した。しかし「労働者の解放、能力に応じて生産創造し、労働に応じて配分する」(ユーゴ社会主義共和国憲法)原則も、「生産手段の社会的共同所有」(同憲法)にさえぎられて、結局は経済官僚の統制強化で非能率に転落せざるを得なかった。チトー亡きあとのユーゴ経済は極度のインフレに悩まされ、集団指導体制という名の政治的無能にも悩まされた。このインフレはユーゴ社会主義の崩壊まで解決することはなかった。解体後のユーゴが四分五裂し、民族紛争に明け暮れている現状は、ボスニア・ヘルッエゴビナをみれば一目瞭然である。

 ブルガリアも三国同盟加盟国であった。大戦初期は中立を表明したが、ブルガリアがドイツに対して宣戦布告するやいなや、ソヴィエト軍の宣戦布告を受けた。ソヴィエト軍進駐後、その支援下にブルガリア共産党が全権力を掌握したのは、一九四九年一月であった。党独裁体制確立の立役者はゲオルギウ・ディミトロフであった。ディミトロフ以降の党は、反対派に対し徹底した血の粛清を断行し、有能な指導者であったペトコフやコフトフが犠牲となった。ブルガリアの自由主義勢力は全滅し、国民の自由意思は表明の手段を欠いた。経済悪化は農業集団化失敗から始った。もともと工業化がおくれていたことに加えて、コメコン体制内の役割分担が、ソヴィエト・ブロックに対する食糧供給国の地位しかあたえられていなかったこともあり、国民の生活水準は低迷し続けた。具体的統計は省略するが、非能率な官僚統制経済と市場性無視の生産、技術開発のおくれ、国際競争力の弱体化などが複合し、ブルガリア経済の発展は、社会主義経済体制が継続するかぎり、不能となった。党は党内部も含めて、自由化要求の波に抗しきれず、自滅へいたったのである。国民の政治的自由を否定した独裁制、農民の労働意欲無視の強制集団化、国際競争力をともなわない、工業化、これらの原因により、社会主義体制否定へいたったことは自明の理である。

 アルバニアのみは、社会主義政権が永遠に継続する国家であろうと考えられていたのであるが、やはり一連の東ヨーロッパ自由化の余波を受け、社会主義崩壊をみるにいたった。アルバニアはイタリアの植民地支配に対する反対闘争として、大戦直前から共産主義者の活動が激化した。マルクス・レーニン主義の反帝反植民地闘争である。この反イタリア・ファシズム闘争は、大戦中も継続されていたが、強力なレジスタンスとして組織化したのはチトーであった。一九四一年二月、チトーはポポビッチを中心としてアルバニア共産党を結成させた。アメリカ国務長官ハルとイギリス外相イーデンとの外交協力の結果、アルバニアは米英側に立つかにみえたが、ソヴィエト外相モロトフは、アルバニア共産党のみの承認を主張し米英と対立した。結局一九四四年二月、ホッジャを中心とする共産党が全権力を掌握するにいたった。これ以降ホッジャの独裁政権が四○年間続くことになる。ホッジャは一九四八年六月、コミンフォルムでのチトー批判を契機に、ユーゴ共産党と訣別し、完全にソヴィエト路線を受容する。アルバニアは同年七月、対ユーゴ経済断交通告、対ユーゴ原油積出し禁止、ユーゴ・アルバニア鉄道建設中止、翌一九四九年一○月、ユーゴ・アルバニア相互友好援助条約を破棄した。同時に親ユーゴ派の代表的指導者であったゾセは、マルクス・レーニン主義に対する理解不足を理由として銃殺刑となった。一九五三年三月、スターリン死去までの間に、ホッジャは、アルバニア共産党中央委員会書記長、首相、国防軍参謀総長、国民戦線議長の地位を独占した。ホッジャの独裁を可能とした根拠は、粛清法一九五二年五月制定)であった。この粛清法公有と同時に党中央委員一四名は全員粛清された。アルバニア経済は、ソヴィエトの経済援助により成り立っていたが、一九六一年一月、ソヴィエトの対アルバニア経済援助打ち切り後は、中国へ全面的に依存した。後日アルバニアは、中国の国運加盟に関する「アルバニア案」にみられるごとく、国連では中国の利益代表団を務めた。しかし四○年間におよぶホッジャの独裁体制が、ホッジャの死去によって終了すると、東ヨーロッパで最もおくれていた自由化運動が急激に活発化し、一瞬にして社会主義体制崩壊へいたったのである。

 東ヨーロッパの社会主義国であったポーランド、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ルーマニア、ユーゴスラヴィア、ブルガリア、アルバニアの七ヵ国は、ことごとく社会主義路線を放棄した。その共通点は、政治的自由の否定と経済政策の失敗であった。その結果、複数政党制と資本主義経済の復活となった。政治部門でも経済部門でも、各国はマルクス・レーニン主義を基本とした社会主義理論が、現実世界では機能し得ないことを察知した。先に引用したように、「ソ連の強い影響下にあった東欧諸国ですら、社会主義体制は半世紀ももたなかった」のである(前掲、吉川元「ソ連ブロックの形成と衰退」)。政治的自由がなく、生活水準の向上も期待し得ない状態では、「半世紀」にもわたって国民多数の支持を獲得することは明らかに不可能である。プロレタリアート独裁、農業集団化、生産手段の国有化、これらの理論自体多くの矛盾を有していることになる。


  1. はじめに
  2. マルクス・レーニン主義欠陥説
  3. 社会主義建設失敗説
  4. まとめ

社会主義崩壊の要因に戻る