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森田昌幸(1996)「社会主義崩壊の原因」

はじめに

 世界最強最大といわれたソヴィエト連邦が、一九九一年一二月に崩壊したことは、一九一七年レーニンがロシア十月革命を成功させたこと以上に、今世紀における最大の政治変革であった。さらにソヴィエト連邦崩壊の「さきがけ」となった東ヨーロッパ諸国の自由化もまた、社会主義世界における重大変革であった。ソヴィエト連邦および東ヨーロッパ諸国における社会主義政権の崩壊は、何がその原因であったのか。崩壊原因論を大別すると次のふたつの説になる。第一の説は、社会主義理論すなわちマルクス・レーニン主義そのものに根本的欠陥があるとする説である。第二の説は、社会主義理論そのものには何ら欠陥はないのであるが、社会主義建設の方法において重大な失敗があったとする説である。いうまでもなく、ある国家が崩壊する原因には、多くの理由があり、ひとつの側面だけで説明することは困難である。第一説において、ひと口にマルクス・レーニン主義といっても、マルクス主義とレーニン主義は厳密には異なっており、第二説でいう方法論にしても、なぜそのような方法しかとり得なかったのか、換言すれば、社会主義政権樹立にあたり、その方法しかなく、他の方法によれば社会主義権力が成立し得なかったということもある。

 ともあれソヴィエト連邦や東ヨーロッパ諸国の社会主義は崩壊した。しかし今なお地球上には、いくつかの社会主義国家が存在する。これら社会主義国家は、今後も存続するのであろうか。それも単に存続するだけでなく、社会主義的発展をとげるものであろうか。中国や北朝鮮やキューバの社会主義は、これからも存続しかつ発展し続けるのであろうか。かつてソヴィエト共産党が提唱し遂行した国際共産主義運動は、中国や北朝鮮やキューバによって継承されるのであろうか。国際共産主義運動そのものもまた重大な欠陥を含有していたのであろうか。これらは、これからの国際政治を考察する上で重要な課題であると考える。


一、マルクス・レーニン主義欠陥説

 第一説について考察する。この説の特徴は、マルクス・レーニン主義の理論そのものに重大な欠陥があったとするところにある。マルクス主義理論の中心的課題は、資本主義経済批判であった。国家が資本制様式を採用し是認する限り、労働者階級は資本家階級に搾取され続け、決して解放されることはない。したがって労働者階級の真の解放のためには、資本制様式を廃止し、資本家階級を地球上から消滅せしめ、まったく別の新しい生産様式を導入する必要があると考えた。マルクスの理論はプロレタリアートの解放が目的であった。単純化していえば、プロレタリアート解放のため、資本制様式を廃止し、ブルジョアジーを消滅させるのである。

 まずここに、ひとつ大きな疑問、欠陥がある。つまりプロレタリアート対ブルジョアジーの対決という単純な図式でしか理解し得なかったことである。経済現象のみに着目するならば、一九一七年当時のロシアにおいて、プロレタリアート対ブルジョアジーの利害関係は、まさに対立のみであったといえよう。しかしプロレタリアートの経済的利益確保のために、資本制様式そのものを全廃するという思考は、次の二点で批判されなければならない。ひとつは資本制様式の全廃すなわちブルジョアジーの地球上からの消滅にともなう多大の犠牲、いまひとつは全廃後に導入される新生産様式の効率の是非である。この全廃論は、しかしながら、レーニンによって多分に拡大解釈された可能性がある。なぜならマルクス自身は、高度に議会主義が発達した状況においては、別の思考も認めているからである。ではいかにしてプロレタリアートの利益を獲得するか。ここで道は、ふたつにわかれる。急進主義の道と漸進主義の道である。ロシア十月革命は急進主義の道であった。というのは、もし二月革命の段階で革命が停止していたならばどうであろうか。おそらくロシアは漸進主義の道をあゆんだことであろう。しかし歴史はそうならなかった。ロシアにおける社会主義政権は、急進主義の道でなければ成立し得なかったのである。このことは社会主義理論の中に、力による革命、軍事力の行使をともなう革命論が含有されていることを意味する。一九一七年十月革命後に、ロシア全土で展開された内戦をみれば十分理解されよう。力による政権争奪は、権力確立後において必然的に反対勢力による政権奪還、もしくは反革命の危険にさらされることになる。したがって常に反対勢力に対して警戒と弾圧を継続することになり、政権の安定性を欠く結果となる。よってマルクス・レーニン主義の特徴である力による社会主義政権樹立は、すぐれた思考とはいえない。

 ロシアにおける新生社会主義政権は、レーニン主義の基本「全権力をソヴィエトヘ」のスローガンにみられるごとく、いわゆるプロレタリアート独裁をその目標とした。このことはプロレタリアートの前衛である共産党が排他的に全権力を掌握することを意味し、これを批判したり、これに代る政党が活動したりすることは、すべて禁止される。ここに共産党による一党独裁体制が確立する。ソヴィエト社会主義共和国憲法は次のように規定していた。

 第六条「ソ連邦共産党は、ソヴィエト社会の指導的、先導的勢力であり、ソヴィエト社会の政治体制、国家機関と社会組織の中核である。ソ連共産党は、人民のために存在し、人民に奉仕する。マルクス・レーニン主義の学説で武装した共産党は、社会発展の全般的な見通しをたて、ソ連邦の内外政策の方針を決定し、ソヴィエト国民の偉大な創造的活動を指導し、共産主義の勝利をめざすソヴィエト国民のたたかいに計画性と科学的裏づけを付与する。すべての党組織はソ連邦憲法の枠内で行動する」一九七七年一○月七日、第九期ソ連邦最高会議第七次臨時総会採択、(     )。

 いうまでもなく、いかなる政治体制も完全無欠ということはあり得ない。常に反対勢力による批判に理解をしめし協力を得ることによって、政権を安定的に運営しなければならない。しかし連邦憲法第六条は、「指導的」かつ「先導的」勢力として共産党を位置づけ、「中核」であると規定している。この条文によって党は、すべての批判を否定し、絶対的権力を保持するにいたった。ロード・アクトンの言葉を引用するまでもなく、「権力は腐敗する」ものであり、「絶対的権力は絶対的に腐敗する」結果となる。第六条により、マルクス・レーニン主義の学説によって理論武装した党は、国家の立法権、行政権、司法権の上位に優位する。したがって、このような体制下では、個人の基本的権利が保障されないばかりか、党の指導に誤りがあった場合、これを是正する手段方法がまったくないことになる。なぜならば党を抑制する党の存在が許されないからである。ここにマルクス・レーニン主義としての社会主義理論に重大な欠陥が内在するといわざるを得ない。これが、もうひとつの問題点である。すなわち、ひとつは急進主義の道を選択した結果として、地球上から抹殺されるブルジョアジーの犠牲、もうひとつは独裁党の誤りをふせぐための政権交代のルール、この二点に対する明確な解答を社会主義理論は、しめしてくれないのである。

 次に生産様式に関してみると、資本制様式を全廃して、所有形態を私有制から国有制または社会的所有制に変革するという。この変革がもたらすものは、生産から配分までのすべての分野で、党の指導による国家管理が行われるということである。ソヴィエトの場合、計画経済の中枢はゴスプランであった。要するに、社会主義経済理論は、いわゆる「経国済民」の理論ではなく、単なる「統治理論」にしかすぎない。レーニンの「新経済政策」以降のソヴィエト経済史が、その事実を物語っている。資本主義を否定し、資本主義を乗りこえ、資本主義に優位する社会主義社会が、実は資本主義体制よりも劣る生産しかなし得なかった事実は、中央集権型計画経済体制に大いなる問題があったということになる。ソヴィエトの経済機構が生産よりも配分重視であったことも、失敗の一因といえよう。かつて小泉信三が「共産主義批判の常識」として指摘したように、いかに配分を重視し、配分の制度を充実しても、配分すべき生産が配分に追いつかなければ何の意味もないのである。社会的必要性、国民の経済的要求を無視した国家計画経済体制は、社会主義理論の三番目の大きな問題点であるといわざるを得ない。暴力革命の必要性、一党独裁体制、国家計画経済体制、これらは社会主義理論の主たる特徴であった。これらの特徴が、欠陥として顕在化したにもかかわらず、欠陥を是正し、欠陥を乗りこえることが出来なかったところに、この理論の批判されるべき点があるといえよう。社会主義政権崩壊後の研究として、次の傾聴すべき見解がある。

 「ロシア革命を契機に、社会主義は単にイデオロギーから体制になり、レーニンによって基礎が作られスターリンによって発展させられたソヴィエト型社会主義体制は、プロレタリア独裁、生産手段の国有化や社会的所有、農業の集団化などを特徴とする社会主義体制を建築していった。(以下略)しかしながら、ソ連が構築し世界に提示した社会主義モデルも、またソ連のイニシャティヴによって発展した「社会主義共同体」という名のソ連ブロックも、実際には魅力に乏しく、ソフト・パワーとしての影響力を十分には発揮し得なかったことは、結局ソ連が「解放」し、ソ連の軍事的圧力のもとにあった国以外では社会主義が発展しなかったこと、そしてソ連の強い影響下にあった東欧諸国ですら、社会主義体制は半世紀ももたなかったことから明らかであろう(以下略、吉川元「ソ連ブロックの形成と衰退」、『激動期の国際政治を読み解く本』所収、一三七−一三八ページ、一九九二年七月一日初版、学陽書房)。

 「プロレタリア独裁」、「生産手段の国有化や社会的所有」、「農業の集団化」は、「スターリンによって発展させられた」という。一九八○年代半ばより、衰退の一途をたどるソヴィエト社会にあって、ゴルバチョフを中心とする党最高幹部は、決して手をこまねいていたわけではない。社会主義再生の戦いが展開された。しかし再生は同時に欠陥の克服であって、克服は社会主義崩壊への道となったのである。崩壊を単にフルシチョフの農政失敗やブレジネフの無策、ゴルバチョフの路線逸脱などで理由づけることは出来ない。根本原因の指摘にならないからである。崩壊の原因を論ずるためには、社会主義理論そのものに内在する矛盾に目を向けなければならない。

 東ヨーロッパ諸国の崩壊は何が原因であったのか。ポーランドの場合、社会主義政権成立の過程は、第二次世界大戦末期から大戦後にかけて、ソヴィエト軍の軍事援助を受けたポーランド共産党によって政権獲得が行われた。その方法はルブリンに本拠地をおく「ポーランド国民解放委員会」が、ソヴィエトの軍事占領地域拡大にともなって、解放区を拡大し、解放区における全権力を掌握するという方法であった。一九四五年一二月、モラフスキーを中心としたポーランド臨時政府は、ソヴィエトの援助と承認により成立した。ポーランド共産党としての統一労働者党は、反対党に対しては、ソヴィエトの軍事力を背景に弾圧し、独裁体制を確立した。それゆえ新政権は、真に国民の支持を得たとはいえない。国民の支持を獲得出来ない政権が不安定であることは、いうまでもないことである。一九四五年一月に土地改革、一九四六年一月には基幹産業国有化が決定され、大戦後およそ三年ほどで、ポーランド統一労働者党の一党独裁体制が確立し、農業集団化と国有化が行われた。しかし経済発展は望めず、崩壊直前の対外累積債務は六百億ドルを超過する結果となった。ヤルゼルスキーはワレサの「連帯」に敗北し、社会主義政権としてのポーランドは崩壊したのである。

 チェコスロヴァキアでも、ソヴィエト軍の解放の結果、共産党のクーデターによって、一九四八年二月、独裁制が確立した。農業集団化、産業国有化が実施され、生産手段の私的所有は完全に消滅した。社会主義経済体制が確立したにもかかわらず、経済の不振は解決されず、本来の経済力が発揮されることはなかった。一九六八年八月のチェコ事件後は、国民のあらゆる階層から社会主義体制に対する批判がおこり、力による自由化運動抑圧は不可能となった。チェコでの社会主義政権崩壊は、もともと自由主義国家であったにもかかわらず、一方的に戦車で社会主義を押しつけられたことへの反撥が大きい。プラハ郊外のパンクラーツは、まさにチェコのバスチューであった。ドプチェクによって提唱された「人間の顔をした社会主義」は、チェコ事件から二○年後に、ドプチェク自身によって本来の自由主義国家へと復帰したのである。

 ハンガリーでは社会主義化はどのようにして行われたのであろうか。ハンガリーは第二次世界大戦で枢軸国側であった。ドイツ軍を駆逐するソヴィエト軍は、ハンガリー全土を占領し、占領軍支援下で、一九四四年一一月、ハンガリー最初の社会主義政権がデブレッエンで成立した。しかし一九四五年十一月の総選挙で共産党は敗北した(得票率17%)。その後、ソヴィエト軍の露骨な選挙干渉という支援により、一九四九年五月の総選挙では、共産党は第一党となった(得票率95%)。いわゆる単一リスト制選挙方式の採用の結果である。ラコシは党の独裁制を確立し、徹底した工業化と農業集団化を行った。その結果、ハンガリー経済が直面したものは、労働の生産性低下、インフレ、貿易収支の悪化であった。もはや社会主義政権下での再生は不能となった。改革派の民主化要求に対し、党は受け入れざるを得ず自滅したのである。

 ルーマニアの場合はどうであったか。ルーマニアも第二次世界大戦は、最初ドイツ側で参戦した。大戦中に共産主義者を中心とした反ドイツ戦線が結成され、解放軍としてのソヴィエト軍を迎え入れ、ルーマニア共産党が独裁政権を獲得する道をあゆんだ。中心的指導者はゲオルギウ・デジであった。デジの独裁下で、社会主義経済体制が急速に実施され、一九四八年六月、基幹産業国有化、同一二月には個人企業を含むすべての企業国有化が達成された。一九四九年三月、土地改革法制定により、農業地国有化、集団農場化が実施された。デジの後継者であったニコラエ・チャウシェスクは、徹底した工業優先政策を採用したが、コメコン内部の国際分業制で、ルーマニアの位置が農業生産部門に割りあてられたため、工業化は停滞し、農業集団化も計画通りには実現しなかった。集団化完成が宣言された一九六二年の段階で、ルーマニア労働人口の大半(60%)が農業従事者でありながら、農業生産のGNPに占める率は低い数字(30%)であった。農業集団化の生産性の低下を物語る実例である。まさに農業問題は、ルーマニア経済のアキレス腱であった。その原因が農業の強制的集団化であったことは自明である。もっとも、社会主義政権崩壊時には、ルーマニアの対外累積債務は完済(1)されていた。完済のためルーマニア国民は、日々の食生活まで極端に切りつめた生活を強要された。労働者階級解放を目的とする社会主義は、特権階級擁護の体制と化した。チャウシェスク銃殺の背景には、国民の根強い反共感情があったのである。党独裁による社会主義化路線は、国民の徹底した反共活動のもとに音をたてて崩壊した。

 ユーゴスラヴィアでは、共産党成立のプロセスが他の東ヨーロッパ諸国とは多少異なっている。一九四四年一二月、ソヴィエト軍はユーゴ領内に進駐を開始した。同時に首都ベオグラードは、チトーのパルチザンによってドイツ軍支配から解放された。ユーゴ共産主義者同盟の名でユーゴ共産党書記長に就任したチトーは、同志としてソヴィエト共産党の全面的支援を受けていた。しかしパルチザンの支配権をめぐって、チトー対ミハイロヴィッチの対立は激化の一途をたどり、妥協は不可能であった。対立の背景には、すでに民族問題も台頭しつつあった。結果は、セルビア人であったミハイロヴィッチが、クロアチア生れのチトーに敗北し粛清された。このパルチザンこそユーゴの解放者であったとチトーは力説する。同志チトーは大戦終結時、戦後予測されるソヴィエトのユーゴ支配を察知し機先を制した。結果として、ユーゴに対するソヴィエトの直接的支配は、チトー生存中はおよばなかった。チトーはスターリンの憎悪の的となり、社会主義共同体の一員として認められず、一九四八年六月、コミンフォルムより除名されるにいたった。しかしユーゴ共産党の目標が、ユーゴの社会主義化であることに変りはない。チトーの反共分子粛清は織烈をきわめた。ユーゴの社会主義経済体制は、ソヴィエト型官僚主義の非能率を克服するため、国営企業も労働者自主管理方式を採用した。いわゆるユーゴ型として一部の社会主義者が礼讃した。しかし「労働者の解放、能力に応じて生産創造し、労働に応じて配分する」(ユーゴ社会主義共和国憲法)原則も、「生産手段の社会的共同所有」(同憲法)にさえぎられて、結局は経済官僚の統制強化で非能率に転落せざるを得なかった。チトー亡きあとのユーゴ経済は極度のインフレに悩まされ、集団指導体制という名の政治的無能にも悩まされた。このインフレはユーゴ社会主義の崩壊まで解決することはなかった。解体後のユーゴが四分五裂し、民族紛争に明け暮れている現状は、ボスニア・ヘルッエゴビナをみれば一目瞭然である。

 ブルガリアも三国同盟加盟国であった。大戦初期は中立を表明したが、ブルガリアがドイツに対して宣戦布告するやいなや、ソヴィエト軍の宣戦布告を受けた。ソヴィエト軍進駐後、その支援下にブルガリア共産党が全権力を掌握したのは、一九四九年一月であった。党独裁体制確立の立役者はゲオルギウ・ディミトロフであった。ディミトロフ以降の党は、反対派に対し徹底した血の粛清を断行し、有能な指導者であったペトコフやコフトフが犠牲となった。ブルガリアの自由主義勢力は全滅し、国民の自由意思は表明の手段を欠いた。経済悪化は農業集団化失敗から始った。もともと工業化がおくれていたことに加えて、コメコン体制内の役割分担が、ソヴィエト・ブロックに対する食糧供給国の地位しかあたえられていなかったこともあり、国民の生活水準は低迷し続けた。具体的統計は省略するが、非能率な官僚統制経済と市場性無視の生産、技術開発のおくれ、国際競争力の弱体化などが複合し、ブルガリア経済の発展は、社会主義経済体制が継続するかぎり、不能となった。党は党内部も含めて、自由化要求の波に抗しきれず、自滅へいたったのである。国民の政治的自由を否定した独裁制、農民の労働意欲無視の強制集団化、国際競争力をともなわない、工業化、これらの原因により、社会主義体制否定へいたったことは自明の理である。

 アルバニアのみは、社会主義政権が永遠に継続する国家であろうと考えられていたのであるが、やはり一連の東ヨーロッパ自由化の余波を受け、社会主義崩壊をみるにいたった。アルバニアはイタリアの植民地支配に対する反対闘争として、大戦直前から共産主義者の活動が激化した。マルクス・レーニン主義の反帝反植民地闘争である。この反イタリア・ファシズム闘争は、大戦中も継続されていたが、強力なレジスタンスとして組織化したのはチトーであった。一九四一年二月、チトーはポポビッチを中心としてアルバニア共産党を結成させた。アメリカ国務長官ハルとイギリス外相イーデンとの外交協力の結果、アルバニアは米英側に立つかにみえたが、ソヴィエト外相モロトフは、アルバニア共産党のみの承認を主張し米英と対立した。結局一九四四年二月、ホッジャを中心とする共産党が全権力を掌握するにいたった。これ以降ホッジャの独裁政権が四○年間続くことになる。ホッジャは一九四八年六月、コミンフォルムでのチトー批判を契機に、ユーゴ共産党と訣別し、完全にソヴィエト路線を受容する。アルバニアは同年七月、対ユーゴ経済断交通告、対ユーゴ原油積出し禁止、ユーゴ・アルバニア鉄道建設中止、翌一九四九年一○月、ユーゴ・アルバニア相互友好援助条約を破棄した。同時に親ユーゴ派の代表的指導者であったゾセは、マルクス・レー二ン主義に対する理解不足を理由として銃殺刑となった。一九五三年三月、スターリン死去までの間に、ホッジャは、アルバニア共産党中央委員会書記長、首相、国防軍参謀総長、国民戦線議長の地位を独占した。ホッジャの独裁を可能とした根拠は、粛清法一九五二年五月制定)であった。この粛清法公有と同時に党中央委員一四名は全員粛清された。アルバニア経済は、ソヴィエトの経済援助により成り立っていたが、一九六一年一月、ソヴィエトの対アルバニア経済援助打ち切り後は、中国へ全面的に依存した。後日アルバニアは、中国の国運加盟に関する「アルバニア案」にみられるごとく、国連では中国の利益代表団を務めた。しかし四○年間におよぶホッジャの独裁体制が、ホッジャの死去によって終了すると、東ヨーロッパで最もおくれていた自由化運動が急激に活発化し、一瞬にして社会主義体制崩壊へいたったのである。

 東ヨーロッパの社会主義国であったポーランド、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ルーマニア、ユーゴスラヴィア、ブルガリア、アルバニアの七ヵ国は、ことごとく社会主義路線を放棄した。その共通点は、政治的自由の否定と経済政策の失敗であった。その結果、複数政党制と資本主義経済の復活となった。政治部門でも経済部門でも、各国はマルクス・レーニン主義を基本とした社会主義理論が、現実世界では機能し得ないことを察知した。先に引用したように、「ソ連の強い影響下にあった東欧諸国ですら、社会主義体制は半世紀ももたなかった」のである(前掲、吉川元「ソ連ブロックの形成と衰退」)。政治的自由がなく、生活水準の向上も期待し得ない状態では、「半世紀」にもわたって国民多数の支持を獲得することは明らかに不可能である。プロレタリアート独裁、農業集団化、生産手段の国有化、これらの理論自体多くの矛盾を有していることになる。


二、社会主義建設失敗説

 第二説について考察する。この説はマルクス・レーニン主義理論には、何ら欠陥はないが、社会主義建設のプロセスに失敗や誤りがあったという。政治部門でのプロレタリアート独裁は正しいことになる。経済部門でも、生産手段の国有化、農業集団化、外国貿易の国家独占、これらもすべて正しいことになる。まず政治部門について考える。ひと口にプロレタリアート独裁といっても、すべての労働者が全員で独裁政権に参加し権力を行使することは不可能であるから、「前衛」という職業的革命家集団つまり共産党が独裁権力を掌握し行使する。いうまでもなく、この独裁権力はプロレタリアートのために、プロレタリアートの名において執行される。ここで重要なことは、もし誤って権力が発動されたとしたら、その誤りはどのようにして是正されるのであろうか。おそらく是正されることはないと思われる。理由は、誤りを指摘し、是正を要求するための政治的自由が、国民の側に担保されていないからである。反論として唯一考えられる場合は、独裁権力の行使者が、いかなるときも絶対的に誤りをおかさないという場合のみである。しかしこのような思考は、極度の政治的楽観主義であって、現実社会では、あり得ないことである。しかるに、日本共産党はマルクス・レーニン主義を是認し、科学的社会主義を主張する。

 「現在の社会主義が、社会主義の本来の真価をより全面的に発揮できる地点にまで前進するためには、これらの欠陥、制約、誤りを克服することが不可欠の問題となる。なかでもソ連の覇権主義干渉や圧力に追従し、これを是とするような状態、体制的にいえば、押しつけられた「ソ連型社会主義」の体制をのりこえないと、社会主義国らしい本来の値打ちを発揮するところに前進できない、このことを一貫して指摘してきたのが、日本共産党でした(前衛、No,583,1989,12,P,42-43)」。

 ここにいう「本来の価値」とか「社会主義国らしい本来の値打ち」が何を意味するものか不明であるが、ソヴィエト型社会主義の押しつけはよくないと力説している。たしかに押しつけはよくないであろう。押しつけられることが原因で、「本来の真価」が発揮出来ないこともわかる。押しつけられた国の社会主義が発展しない、または失敗することはあり得るかも知れないが、押しつけた側の社会主義もまた崩壊にいたる理由は何か。この引用が執筆された時点では、ソヴィエト共産党は存在したが、崩壊の危機に直面しつつも、マルクス・レーニン主義を否定しなかった。この引用の次には以下の記述がある。

 「こういう目でみるならば、現在東ヨーロッパの一部の国やバルト三国で起きていることは、まさに日本共産党が主張し、期待し、展望してきたこと、社会主義国を社会主義の道からふみはずさせてきた諸害悪の克服の過程−−その根幹をなすソ連の覇権主義、大国主義の支配と、対ソ追従的・官僚主義的な「ソ連型社会主義」からの脱却の過程にあるということが、なによりの中心問題です(前衛、No,583,1989,12,P.43)。」

 バルト三国に関しては、一九三九年八月、独ソ不可侵中立条約が締結され、その際に両国間で追加秘密議定書が取りかわされた。この秘密協定にもとづき、翌一九四○年、ソヴィエトはラトヴィア、エストニア、リトアニア(2)三国を社会主義共和国として連邦の一部に組み入れたのである。この歴史的背景からみて、バルト三国の抵抗は、ソヴィエト型社会主義の押しつけ反対ではなく、大戦前の独立国家への復帰運動である。したがって「東ヨーロッパの一部の国やバルト三国などで起きていること」が、「まさに日本共産党が主張し、期待し、展望してきたこと」にはならないのである。一九九一年九月、バルト三国は独立国家として再生した。この三国は、もともと独立国家であったのであるから、当然のことである。バルト三国の独立運動をもって、社会主義建設の方法上の問題点とすることは無意味なことである。では次の論述は何を意味するか。

 「「複数前衛党」がありうるかどうかは、学説に関係します。弁証法的唯物論の哲学的な根拠は、人間は客観的真理を認識することができる。哲学には不可知論というのがあります。真理はわからないという不可知論には私たちは立たない。客観的真理の認識は十分可能であって、労働者を解放せよ、そのために労働者は団結しようという真理が客観的に明白ならば、その具体的なアプローチのための集団をいくつもつくる必要はないのです(中略)。同じ方向なら分裂する必要はないというところから、私どもは認識論上も複数前衛党論というものはとらないんです。それは哲学的にも論理的にも矛盾しているからです(前衛、No,592,1990,6,P.41-42)。」

 この議論で、社会主義建設の方法に関しても、党は常にひとつの路線しか選択出来ず、かつ分裂も認めないというのであれば、必然的に一党独裁制しかない。一党独裁制という表現は、民主集中制という言葉におきかえられているが、実質は同一である。複数政党制を認めない根拠として、「客観的に明白」ならば一党のみでよいという。何が「客観的に明白かといえば、「労働者は団結」すること」が「真理」、であることが明白だからであるという。「複数前衛党論」というものはとらない根拠としては、「哲学的にも論理的にも矛盾している」からだという。民主政では、矛盾しているか否かは、選挙民が決定する。社会主義国家は政治部門に民主主義を認めないことが明白である。ソヴィエトや東ヨーロッパ諸国の社会主義が、方法論上の誤りをおかしたのであれば、何が正しい方法であるか。一党独裁制は誤りであるが、民主集中制は正しいという主張は、単なる言葉の言いかえでしかない。

 崩壊した社会主義国家は、なぜ誤りを是正しなかったのか。独裁はプロレタリアート解放の手段であり方法であった。労働者の解放は労働者以外の階層に対しては弾圧となる。私有財産制廃止、宗教活動禁止、個人農禁止、企業経営禁止を実施すれば、労働者以外の階層もすべて労働者階級に転落してしまう。プロレタリアート独裁を正当化するためには、すべての構成員がプロレタリアートに属さなければならない。国民すべてがプロレタリアートという一階級のみであるから、プロレタリアート独裁は全国民に対する独裁として承認されることになる。複数政党制が禁止される理由である。

 独裁制の党が誤りを是正する方法について、可能性はふたつある。ひとつは党自身が誤りに気づき、これを是正する場合である。自浄であるが、この期待は非常に困難である。もうひとつは、誤りをおかした党そのものを解体して、別の新しい党にかえてしまう場合である。ソヴィエトや東ヨーロッパの変革は後者の場合であった。複数政党制により、国民の判断を求めた結果である。社会主義政権の否定と自由主義政府の肯定がそれである。一九八九年以降の一連の政治変革は、方法上の誤りではなく、社会主義理論そのものの誤りを指摘したことになる。社会主義国家の労働者によって、社会主義体制が否定された事実は、もはや方法論上の誤りとはいえない。次の反論に対して、いかに解答すべきか。

 「結論的にいえば、東欧やソ連では、社会主義の本当の基準にあったような社会主義体制はできていないと思います。長いあいだチェコスロヴァキア侵略などを正当化してきたし、経済でもいまだに貧弱な状況ですし、社会主義的民主主義もごく最近まで抑圧されてきました。中国その他も、要するに天安門事件が明らかにしているように、ああいう弾圧を正当化するようでは、社会主義的民主主義は全然ないということです。(中略)世界で理想的といいますか、基準にかなった社会主義はまだどこにもない。誤った社会主義が破綻したということは、なにか社会主義のイメージダウンという点では残念だけれども、しかし、一度は通らなければならない当然の道でした(前衛No,592,1990,6,P.30-31)。」

 「本当の基準」が何か不明である。「本当の基準」がマルクス・レーニン主義をさすのであれば、マルクス・レー二ン主義こそ誤りになってしまう。理由は、ソヴィエトも東ヨーロッパ諸国も、この理論を忠実に実践した結果として解体したからである。「誤った社会主義が破綻した」のではなく、社会主義に誤りがあったので破綻したのである。社会主義体制を打破した社会主義国家の国民は、「誤った社会主義」を打破したのではなく、「本当の基準」を否定したのである。今やレーニン主義そのものが批判の対象となっている。レーニンこそ正しいのであれば、一九二四年一月、レーニンの死去までは、「本当の基準」による本当の社会主義となる。ボルシェヴィキ革命後、ロシアが直面した事態、食糧危機、生産低下、反革命、少数民族独立運動、国家分裂一歩前の状況は、「本当の基準」とどのような関係にあるのか。一九一八年七月、ソヴィエト共和国憲法(レーニン憲法)公布、皇帝ニコライ二世処刑、反対派弾圧、つまり「本当の基準」は民主政とは無関係である。次はレーニンの電報である。

 「貴電拝受。選抜された信頼できる人々で強力な警備隊を組織し、富農、僧侶、自衛軍人に対する仮借のない集団テロルをくわえ、疑わしい人間を市外の強制収容所に拘禁しなければならない。討伐隊をさしむけよ。遂行状態について打電されたい。
人民委員会議議長 レーニン
一九一八年八月九日に執筆、モスクワからペンザあて(レーニン全集、大月書店、第二六巻、五七七ぺ−ジ)」。

 「本当の基準」こそプロレタリアート独裁を肯定し、暴力革命を遂行したのである。民主政の特徴は、平穏な政権交代にある。国民の意思を無視した政権は、その政権が続くかぎり、権力により国民を弾圧する。国家にそなわった権力は、いうまでもなく、国民のために発動される。理由のいかんを問わず、国民弾圧に権力が行使されてはならない。自由主義国家では自明の理である。

 方法に誤りがあったという説を考察する上で、次に重要なことは、社会主義国の個人崇拝である。レーニンもスターリンもチトーもチャウシェスクも、すべて個人崇拝の対象となった。毛沢東も金日成も同様である。個人崇拝の最も極端な事例はスターリンである。社会主義建設に個人崇拝は必要か。一見不要のようにみえるが、個人崇拝と社会主義は一体化する。国民の意思に反する政策を強制執行するためには、強大な独裁権力が必要である。強大な独裁権力を正当化するためには、権力者に対する個人崇拝が絶対的に必要となる。ナチス・ドイツのヒットラーと同一である。方法に誤りがあったとする説では、スターリンの個人崇拝を批判する。スターリンこそ社会主義を誤らせた張本人として、徹底的に批判する。あたかもスターリンさえ批判すれば、社会主義は再生するかのように。しかしスターリン批判や非スターリン化で社会主義は再生しなかった。スターリンこそ、社会主義を強化し継承させた中心人物である。「本当の基準」を本当に実践した指導者こそスターリンであった。第二次世界大戦、特に独ソ戦で、社会主義を守った指導者もスターリンであった。独ソ戦勝利の理由は、スターリンの独裁がヒットラーの独裁をうわまわったからである。スターリンによれば、独ソ戦は大祖国戦争であった。社会主義の祖国ソヴィエトを守りぬくことこそ、ロシア人の義務であった。レニングラード包囲戦は、スターリンのヒットラーに対する勝利の象徴であった。スターリンの戦争指導は失敗の連続であったが、勝利を獲得した理由は、独裁と、もうひとつ、大祖国戦争と称するスローガンであった。母なる大地ロシアを祖国と呼び、祖国防衛をロシア人の神聖な義務と位置づけた。愛国心である。ロシア人の愛国心は、神聖ロシア(3)の愛国心である。しかし「祖国」、「ロシア」、「愛国心」、これらは社会主義インターナショナリズムとは対立する概念である。社会主義と個人崇拝が一体不可分である理由は、「本当の基準」の独裁にある。したがって、いかに個人崇拝を否定し、いかにスターリン批判をくりかえしても、社会主義の再生はあり得ない。

 「本当の基準」は最終的に国民の支援を得ることが出来なかった。「本当の基準」が実現しないのみならず、「基準にかなった社会主義はまだどこにもない」という主張は、どのように理解すればよいのか。「どこにもない」ことになれば、ソヴィエト社会主義共和国連邦も、ポーランド社会主義共和国も、ハンガリー社会主義共和国も、その他すべての社会主義国家は、いかなる形の存在であったのか。『ソ連、東欧の事態について』(前掲、前衛、No,592,P.26)は明白でない。「経済でもいまだに貧弱な状況」であれば、克服する方法を明示すべきである。方法に誤りがあったとする説は、「本当の基準」を実現させる方法を明示出来ない欠陥がある。次にマルクス・レーニン主義は正しく、スターリン主義が誤りという主張をみる。「東欧「社会主義」諸国の全面的崩壊の意義」として以下の通りである。

 「本章の「まえおき」でわたくしは、東欧「社会主義」諸国が全面的崩壊をとげた事実をあげて、これに世界史的激変という言葉をあてはめたが、しかし、実際によく検討してみると、これら諸国の体制が完全に崩壊したのは、要するに、必然的な、当然起こるべくして起こった変化であり、世界史的見地からすれば、むしろ歓迎されるべき崩壊であり、歴史的進歩を阻止していた強力支配体制を片づけたものだということができるし、また、そういうものをして規定されるべきものだと、私は考えるのである。なぜそのように規定することができるかといえば、それはこれらの崩壊した「社会主義社会」の真実の在り方を、そしてまた、当然のことながら、それら諸国の成り立ちをば、宣伝や、先入主に惑わされることなく、客観的に冷静に考察するならば、これらの国はすべて、かの反マルクス=レーニン主義的専制支配者、世紀的「屠殺者」である頭目スターリンによって完全に支配され抑圧され、頭目に忠実な共産党・労働者党の一党独裁のもとにおかれた、まさにファッショ的強力支配体制のもとにしばりつけられていたものだということが明白になるからである(以下略)」(山本二三丸『社会主義の虚像と実像』、青木書店、八二−八三ぺ−ジ)。

 東ヨーロッパ諸国の社会主義政権崩壊は「起こるべくして起こった変化」であり、「歓迎さるべき崩壊」であり、「強力支配体制を片づけたもの」であるという。理由は、「頭目スターリン」によって「ファッショ的強力支配体制のもとにしばりつけられていた」からであるという。スターリンが悪の張本人であり、スターリンの存在こそ社会主義発展の敵であったことになる。スターリンが出現しなければ、マルクス・レーニン主義はソヴィエトや東ヨーロッパ諸国で理想の花を咲かせたであろうか。一九二四年一月、レーニンの死去後、後継者として、なぜスターリンが選出されたのか。スターリンの解任は不可能であったか。理由は明白である。すでに党が一党独裁体制を確立し、党内民主主義は皆無であった。この解釈に対して次の反論がある。

 「……「一党独裁」というのは、たとえば「自由で豊かである」日本における自由民主党が享楽しているようなものである……」(山本二三丸、前掲書、一三九ぺ−ジ)。

 自由民主党が一党独裁であるという判断が、いかなる根拠によってなされたものであるか明確にされていないので理解不能であるが、民主主義国家である日本の政党と、社会主義国家であるソヴィエト連邦の政党とは、本質的にその性格を異にする。日本では議会で政権交代の可能性があるのに対して、ソヴィエトではその可能性はない。現に自由民主党は、一党独裁どころか、単独で政権を維持することが出来ず、三党連立政権の一翼に転落してしまった。ソヴィエト共産党は、ソヴィエト社会に自由で民主的な議会が存在しないため、政権交代の可能性もなく、やむなく交代せざるを得ない事態にいたると、交代でなく解体となる。社会主義国家の政治体制が、マルクス・レーニン主義の原則通り、一党独裁制を採用するかぎり、政権交代のルール不在は当然である。「一党独裁」が「自由民主党」であるという見解は、自由民主党が単に長期単独政権であったというにすぎない。国民の多数が自由民主党を支持した結果である。長期単独政権が好ましいとは考えないが、議会での政権交代の可能性が保障された社会では、国民の意思であり民主政の結果である。民主政下の単独政権は、それが長期継続しても、決して一党独裁ではない。自由民主党が一党独裁となるためには、自由民主党以外のすべての政党活動を禁止する法律を、自由民主党自ら制定し、公布した後に実現する。自由民主党は、「自由民主党独裁政権法案」を議会に提案していない。民主政下で、かならずしも不可能ではない。一九三三年三月、ナチス・ドイツが提案し議会で可決された「ドイツ授権法」はこれに相当する。社会主義国家が、常にプロレタリアート独裁を重視する根拠は次の一点にある。

 「資本主義社会と共産主義社会とのあいだには、前者から後者への革命的転化の時期がある。この時期に照応してまた政治上の過度期がある。この時期の国家は、プロレタリアートの革命的独裁以外のなにものでもありえない」(マルクス・エンゲルス全集、1875−1883,19,大月書店、一八−二九ぺ−ジ)。

 プロレタリアートの独裁と一政党の独裁とでは、その意味が本質的に異なることは明白である。自由で民主的な議会では、一政党の独裁という事態は出現しない。一見して独裁にみえても、単なる長期単独政権にすぎない。いずれ他の政党に交代するであろう。理由は国民に政治的自由が認められ、政権交代のルールが確立し、複数政党制が承認されているからである。しかるにプロレタリアート独裁となれば、一政党の問題ではなくなる。プロレタリアートの前衛が自己を共産党と称しても、党の性格は民主制国家の政党とは異質である。前衛党たる共産党は、全プロレタリアートを代表する全階級党である。全階級党であるがゆえに唯一無二であって、A全階級党、B全階級党といった党は存在しない。プロレタリアート全体を代表する前衛党は、個々の労働者の集合体である全労働者階級の利益代表であり、政党であるよりも階級代表機関という名の国家機関に接近した性格を有する。この全労働者階級に全権力をあたえることは、前衛たる共産党は、「労働者階級国家」の公権力遂行者となり、国家権力そのものとなる。それゆえ社会主義国家の共産党は、自由民主党や日本社会党といった政党とは異質の、国家政党であり、究極は国家となる。次の反論に注目する必要がある。

 「林氏よ、よく目を開いてここにある文字(4)をしっかりとお読みいただきたい。マルクスは、ナチスがやったような、自民党がやっているような、一政党の独裁などを言っているのではない。プロレタリアートという、社会主義社会建設の唯一の主力部隊である先進的な労働者階級の独裁を言っているのである。しかもこれは、社会主義社会のことではまったくない。社会主義社会以前の、社会主義社会を建設するために、この建設を妨害してあくまで勤労人民大衆の抑圧と搾取を維持しようとあらゆる「平和的」および強力的反革命闘争を強行する旧支配階級のいっさいの策動を強力的に弾圧するためのものである」(山本二三丸、前掲書、一一九−一四〇ページ)。

 社会主義社会建設のため、なぜプロレタリアート独裁が許されるか。「社会主義社会建設の唯一の主力部隊」が、なぜ「先進的」といえるのか。なぜ「唯一」なのか。「労働者階級の独裁」が実行される場は、「社会主義社会以前」の社会であるという。社会主義社会が成立する以前の社会で、社会主義社会の建設に反対する人々を、「強力的に弾圧」することが、なぜ許されるのか。疑問に対する解答は、ただひとつ、マルクス・レーニン主義の正しい理解にあるという。マルクス・レーニン主義そのものに対する検討は、いっさいなされない。マルクス・レーニン主義を信じ、実践することが「科学的社会主義」であるという思想は、もはや思想の域をこえて信仰の域にはいっている。マルクス教であり、レーニン教である。一九八九年以降の社会主義世界における政治変革は、まさにマルクス主義、レーニン主義の科学的根拠が問われたのである。この疑問に対し、スターリン批判のみで正解をあたえることは困難である。なぜならスターリンこそ、「プロレタリアート独裁に反対した人々」、「社会主義建設を妨害した人々」を「強力的に弾圧」したからである。スターリンほどマルクス・レーニン主義に忠実であった指導者は他にみあたらない。東ヨーロッパ諸国の小スターリン達も同様である。チャウシェスクもディミトロフもホッジャも、すべて忠実な下僕であった。一九一七年のペトログラードで、一九四五年のワルシャワで、一九四八年のプラハで、プロレタリアート独裁の是否に関する完全自由選挙を実施すれば、共産主義政党の独裁制は存在しなかったであろう。反対政党の存在を認めない政権が、真に国民の支持を得ることはあり得ない。前衛党の独裁が過渡期であっても、過渡期という理由で独裁を承認することは決して許されない。過渡期が永遠に続くからである。一九一七年の過渡期は、一九九一年の崩壊にいたってもなお過渡期であった。第二説にいう方法論の誤りは、基本原則の誤りであったといいかえねばならない。


まとめ

 社会主義国家崩壊の原因として、第一説と第二説を考察したが、結論が第一説であることは明白である。社会主義理論には、やはり根本的誤りが内在した。国民の意思に無関係に、前衛が権力を独占するというただ一点に誤りは集中する。政治的自由を認めない国家、それは古代や中世の専制支配と同一である。「先進的」ではなく、保守的、後退的でさえある。連鎖反応的に次々と崩壊した社会主義国家は、成立時すでに崩壊因子が内在した。今日ある社会主義国家も、政治的自由を否定し続けるかぎり、解体は時間の問題である。中国も北朝鮮もキューバも、共産党一党独裁制を維持すれば、広範な国民の支持は得られず、経済活性化も困難となる。天安門事件や金日成後継問題や難民流出問題は、社会主義体制の本質に原因する。指導者が国民の幸福と国家発展を真に願望すれば、独裁制を放棄し、複数政党制実施にいたる。自由公正かつ民主的国民投票で政権党を決し、国民を「解放」することが、真に勇気ある指導者である。古色蒼然たるマルクス・レーニン主義を金科玉条として墨守し、「解放」を拒否し続けるならば、国民の重大な審判を受け、非劇的結末にいたる。マルクスやエンゲルスの資本主義批判は、一九世紀には優れた価値を有した。一九世紀の偉大な思想家として評価すべきであって、今日の社会に一字一句適合させることは無意味な時代錯誤である。レーニンも二○世紀初頭、ロマノフ王朝の専制支配を打倒する指導者として評価すべきである。二月革命以降のレーニン主義に批判すべき問題がある。今日の国際社会で、「帝国主義戦争を内戦に転化せよ」(5)とさけぶことは、国際の平和と安定をみだすのみである。社会主義体制は専制支配と経済搾取に苦悩する社会を短期間で一定水準まで発展させる強硬手段であり、緊急避難価値を認めても、永遠に存続すべきではない。ロシアや東ヨーロッパでは、マルクス・レーニン主義は今やその任務を終了した。次に到来する社会は自由主義社会である。


(1)対外累積債務一五○億ドルは、一九八九年一二月、チャウシェスク銃殺刑までに完済されたが、そのため国民は、食糧、燃料、電力不足に悩まされた。ブカレストの日中停電は名物となった。

(2)バルト三国がスターリンによって社会主義化され、ソヴィエト領へ編入されるプロセスは、ユオザス・ウルブシス著、村田陽一訳『回想録 リトアニア』−−厳しい試練の年月−−新日本出版社、一九九一年四月二○日初版、にくわしい。

(3)「消えたかと思われた聖なるロシアが、一九八八年の六月上旬に千年目の誕生日を迎えた。聖なるロシアの誕生日はロシアの国の誕生日でもあるから、帝政ロシアの時代であったならば、国をあげて祝ったはずである。一年前に革命七○年目の誕生日を迎えたソビエト・ロシアには関係がないので、記念式典は質素に教会の中だけで行われることになっていた。ところが意外なことに政府首脳が、記念式典の二カ月前に、これまでの教会に対する政府の態度に誤りがあったことを公の場で認める、という考えられないことが起きたのである」(高橋保行著、『ロシア精神の源』−−よみがえる「聖なるロシア」
−−「はじめに」七ペ−ジ、中央公論社、一九八九年一二月二○日)この内容とまったく同じことを、一九八九年一○月、レニングラードのアレクサンドル・ネフスキー寺院で経験した。一九八五年以来ロシア正教会は、すでに復活していた。

(4)「ここにある文字」とは、マルクス・エンゲルス全集より引用した部分をさす。

(5)内戦の過程でプロレタリアート独裁を実現させ、社会主義政権を確立する。社会主義革命成功のために帝国主義戦争を利用するとなれば、国際の平和と矛盾対立する。かつての国際共産主義運動は、まさに「革命の輸出」であった。アジア、アフリカ、ラテン・アメリカ諸国に対する「革命の輸出」が戦争原因であったことは現在なお記憶に新しい。


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