中国経済ホーム

中国経済の特殊性

はじめに

 中国経済の特殊性を考える上ではじめに思い浮かぶのは"社会主義市場経済"という概念である。この概念を単純に解釈すれば、政治は社会主義・全体主義で経済は資本主義又は文字通り市場経済ということになる。一般的に政治が社会主義であるならば経済は計画経済であるし、経済が市場経済つまり資本主義であるならば政治は自由主義である。しかし中国政府は社会主義市場経済を定義し、それに基づいて経済運営を行っている。矛盾している概念のように思われるが中国の歴史現状を考慮すれば整合性と必然性を感じる。

 本論文は学部の3年間で張紀潯先生から学んだことをまとめ、大学院での研究課題を浮き彫りにすることを目的とする。ここで本論文の構成を示せば以下の通りである。

 第1章で中国経済の特徴を列挙し、若干の考察を試みる。
 第2章では開発経済学の一般的な理論を用いて若干の分析を試みる。
 第3章ではこれまで一般的、観念的であった議論をより具体的なものとする。具体例として郷鎮企業について分析する。


第1章 中国経済の特徴

第1節 比較体制論と開発経済論

 中華人民共和国(以下中国と略称)は1949年に社会主義国としてスタートした。当時の国際環境は第二次世界大戦後の東西冷戦期にあった。中国は周知の通り東側であった。そのため当時一般的に中国経済を理解するために社会主義経済理論が用いられ、それをより良く理解するために資本主義の体制と比較した比較体制論が用いられた。しかし中国は東側陣営にあって特異な地位を占め且つ南北問題においては南側に属していた。

 1970年代末になると計画経済の行き詰まりからの市場志向経済への移行と南側の発展途上国が輸入代替型経済から輸出志向型経済へ移行して概ね成功しつつある状況から輸出志向型になった。現在では中国経済を理解するために政治経済に主眼をおいた比較体制論よりは経済成長に主眼をおいた開発経済論的アプローチが多く用いられている。私は中国経済を理解する上では開発経済論的アプローチが非常に有効であると思う。しかし、中国経済には国有企業問題などの計画経済期の残滓があり、これまでの経済発展の経験から抽出された開発経済論を単純に当てはめることに疑問の残る中国の国土と人口の巨大さがある。また、経済成長に主眼をおいた開発経済論は1997年におけるアジア諸国の経済失速の経験から再検討されなければならない。

 アジア諸国特にASEANの経済失速には様々な原因が考えられるが、その原因の1つとして経済成長の必要条件として政治的安定をあげ、そのために開発独裁を容認する風潮を作ったことがあるのではないか? 開発経済論はマクロ経済論的性格を持ち、経済成長のために政府が経済に積極的に介入することを許容する。政府が中心になって経済成長をする事に異論はないが政府が過ちを犯すことも十分に考えられる。政府の過ちをできる限り事前に回避するために政府に意見を言う何らかの勢力がその国の中にあることが望ましい。

 開発経済論は理論的客観的な概念体系である。そのために普遍的であり、議論をしても論理的に解決することができるという優れた面を持っている。これは社会学が進むべき1つの道である。一方で発展途上国が経済成長という目標を設定してそのための方法を考えると開発経済論だけではその方法を明らかにすることはできないように思う。このように理論だけでは一般化できない点も中国経済の特殊性に一役買っている。

 途中から最近漠然と考えていることを書き記したのでまとまりがなくなった。本論文では可能な限り開発経済論的アプローチを用いるようにする。比較体制論については勉強不足であるし、更に漠然と書き記したことをきちんと論ずるにはまだまだ力不足である。本章では中国経済の特徴を概説するために歴史的、地理的な面を取り上げる。それは経済に限らず中国の特殊性は長い歴史の縦軸広大な国土で同時発生的に起こること・横軸の積によって生じると考えているからである。


第2節  中国経済史概略

 これまで中国の経済は概ね政治によって左右されてきた。そのため政治的な転換点と経済的な転換点は概ね一致する。大きな政治的な転換点として1911年の辛亥革命、1949年の中華人民共和国の成立、1978年以降の改革開放政策をあげることができる。中国経済を経済史で分類するためにはいくつかの概念を用いることができる。

 まず大まかに分類すれば辛亥革命以前を封建時代と位置づけ経済史が問題とする経済発展段階説を用いれば長い間変化のなかった時期であるとすることができ、辛亥革命以降は中国が今日の経済成長をするための必要条件を徐々に満たしていった時期であるということができる。

 ここでは開発経済学ではおなじみのロストウ経済発展段階説を用いることにする。ロストウの経済発展段階説を用いた説明は第2章において詳しくすることとし、ここでは簡単に触れることにする。ロストウの発展段階説の要点は"離陸(take off)"の概念である。離陸の前には2つの時期を経なければならない。それらは伝統的社会離陸先行期である。伝統的社会は先程ふれた辛亥革命以前と考えて良い。ロストウによれば中国は1952年から離陸に入っている。すると離陸先行期は自動的に辛亥革命以後から離陸期以前ということになる。

 新中国の成立と離陸期への移行はほぼ一致する。通常、離陸期に入れば、経済はそれまでの停滞的な循環から成長的な循環へと移行する。しかし中国経済は大きな成長を遂げることができなかった。これらは一般に毛沢東指導体制下で行われた大躍進政策の失敗やプロレタリア文化大革命による政治的混乱などで説明される。又は1991年のソビエト連邦崩壊の事実から社会主義経済そのものに欠陥があるという指摘もされる(森田昌幸社会主義国家崩壊の原因」等参照)。

 今日の中国経済の発展は一般に1978年以降の改革開放政策によってもたらされたといわれている。この政策は簡単にいえば輸入代替型から輸出志向型へ、計画経済から市場経済への移行である。はじめに簡単にふれたが中国の経済はその時々の政治更には国際関係に大きな影響を受けてきた。1978年以降、天安門事件があり国際関係の一時的な後退があったにも関わらず、それは中国経済の成長を止めるものにはならなかった。これは中国経済を構成している各経済主体がこれまでの経験など積み重ねによって経済成長のための必要条件を満たしていたからではないか。今日の江沢民集団指導体制による協調的な政治経済施策はその具体例である。

 こうして中国の経済史を大まかになぞってみると今日の中国経済がより理解できる。一言で言えば市場経済による経済第一主義である。そして中国政府と人民はこれまでの経験から政治的混乱を嫌っていることが分かる。しかし一般に歴史はそれほど単純ではない。毛沢東の指導下の中国において経済より政治が重要視されたのはそれなりの必然性があるし、動態的な歴史は昨日の教訓が今日の成功をもたらしたからといって、明日の成功を約束しない。中国経済史概略と題したが、本節ではまだまだ不十分である。これは今後の課題にしたい。


第3節  巨大な国土と人口

 中国の人口は世界一である。一般に12億人以上といわれている。人口という基本的な統計データを取るだけでも中国では一苦労である。経済学特にマクロ経済学において正確な統計データは欠くことができない。この点において中国の巨大さはマイナスとなる。中国の巨大さがマイナスとなる問題には他にも地域間格差、食料、エネルギーなどの問題がある。

 地域間格差は一般に図1−1のような地域別の1人あたりGNPであらわされる。地域間格差は中国が高度経済成長をする以前から存在していた。それは巨大な国土ゆえということができるかもしれない。一般には経済成長によってそれは解消される又は全体が底上げされるといわれている。確かに経済成長によって全体が底上げされ貧困人口が減少している。しかし地域間経済格差はいっこうに縮小しない。他国の例をあげれば、1955年当時の日本では第1位の東京都と最下位の鹿児島を比較すると3倍の開きがあった。1993年のインドではデリー直轄市とビハール州の間で4倍の開きがあった。中国は図1−1から分かるように上海と貴州省の間で9.7倍もの開きがある。地域間格差は1人当たりGNPだけでなくインフラストラクチャーなどについてもいうことができる。

 食糧問題とエネルギー問題は中国の巨大さ故に中国だけの問題にとどまらない。世界の食糧相場を騰貴させた1995年の大量輸入、環境問題との絡みで石炭の大量消費の問題、1993年から石油の純輸入国に転じたことはその具体例である。

 最後にその巨大さ故に完全な国内統一市場を作ることができない点をあげる。しかし、この点はプラスの面でもある。中国はEUが統一市場のために用いた努力に比べればそれより小さな努力でEUよりも大きな統一市場を作ることができる可能性を持っている。

 中国の巨大な国土と人口はマイナスにもプラスにもなる。またその巨大さ故に国内問題にはとどまらないのである。

図1−1 省別1人当たりGNP
図1−1 省別1人当たりGNP
(資料)『中国統計年鑑』1996。

出所:日本興業銀行編『中国 2001年の産業・経済』東洋経済新報社,1997年,31頁。
1):この図から沿海部と内陸部の格差を読みとることができる。

第2章 開発経済学からのアプローチ

第1節 輸入代替工業化政策と輸出志向工業化政策

1.輸入代替工業化政策

 輸入代替工業化政策輸出志向工業化政策はどちらも理論というよりは工業化又は経済成長するための方法論である。これらの政策は多くの発展途上国で採用され中国もこれらの政策を採用した。

 輸入代替工業化政策は1950年代から60年代に多くの発展途上国で採用された保護主義的な政策である。この政策が多くの途上国で採用されたのにはいくつかの理由がある。

 もっとも大きな理由は多くの国がかつて植民地であったためである。政治的な要素も含む民族資本の概念があり自立的な国家建設のための自立的な経済の建設が目指された。毛沢東指導体制下の中国が自力更生をスローガンとし、保護主義というよりは鎖国的であったのは特殊な事実であったとしても民族資本の概念を用いることによっていくらか一般化することができる。

 より経済学的な理由としては、それらの国々の産業構造を上げることができる。多くの国々がモノカルチュア的経済構造であった。モノカルチュア的経済は特定の財の価格変化によってその国の経済が大きな影響を受けてしまう。また多くの国が1次産品に特化していた。1次産品の多くは非弾力的な需要を持つ財であるために価格変化が大きく一国経済がそれに依存するとその経済は不安定であることから逃れることができない。

 これらの問題を解決するためにとられた輸入代替工業化政策は具体的には高関税障壁数量統制などの手段を用いて輸入を制限し、その結果創出された国内市場に向けて自国の産業を開発して、輸入を国内生産に切り替えるといったやり方である。

 例えば自動車のような最終財を輸入代替したとする。まず外車に対して高関税や数量規制をし、残った需要に対して国産車を供給する。当初は国産車のすべての部品を国産することはできないので多くの素材、中間製品などの資本財は輸入しなければならないが、ハーシュマンの後方連鎖効果をつうじてやがて国産されるようになる。こういった過程を自動車だけでなく多くの工業製品においても行うことによって工業化・経済成長をしようというものである。しかし輸入代替政策による工業化はやがていくつかの問題を伴うようになった。

 1つは多くの国ですぐに国内市場が飽和状態になってしまったことである。そのため輸入代替の過程が修了すると各企業は国内の低成長率に合わせてしか成長できなくなった。各企業は保護主義的輸入代替工業化政策の元で成長してきたため国際競争力が無く国外に市場を求めることができなかった。

 この点を中国当てはめてみるとどうなるのであろうか? 単純に当てはめることはできないが保護主義的な政策の結果、国際競争力を失うという点は今日の国有企業の現状をいくらか説明できる

 もう1つはハーシュマンの後方連鎖効果がスムーズに起こらない場合には、資本財輸入が増大し、貿易収支の赤字が増大するという問題である。この問題は工業化を成功させたNIES諸国においても観察することができる。ここでは貿易収支の赤字が増大し、更に外貨危機を引き起こし経済の停滞を引き起こすこととする。

 中国は1978年以前すでに触れた自力更生経済であったために国際収支の問題を引き起こすことはなかった


2.輸出志向工業化政策

 輸出志向工業化政策は1960年代後半から1970年代にかけて多くの発展途上国において採用された。輸入代替工業化政策保護主義的であったのに対して輸出志向工業化政策自由主義的であった。輸出志向工業化政策は概ね成功した。この政策によってNIESASEAN諸国はほぼ工業化を達成している。中国は特殊で工業化という点では保護主義的な自力更生政策期に高い工業化率を達成していた。(中国の工業化率については、「一人当たり所得水準と製造業比率 (1991年)」「アジア経済発展の概観 その多様なる」を参照。)一方、経済成長という点においては自由主義的な開放政策が今日の経済成長を支える大きな柱となっている。(自由主義的輸出志向工業化政策への批判は、「21世紀はアジア太平洋の時代か」「悲観的アジア経済論--政治経済学的アプローチ」を参照。)

 輸出志向工業化政策の成功にはいくつかの背景がある。まずある国がある財を輸出した場合にその財を輸入する国がなくてはならない。これは当たり前のことかもしれない。国外の市場に需要があるから供給するのである。輸出志向工業化政策が成功するためには世界市場が安定的で成長していることが必要である。安定的な市場については2度の石油危機による世界経済の不安定化があったので必ずしも当てはまらないかもしれない。しかし石油危機はモノカルチュア的経済構造にあった国により深刻な影響を与えた。そのため途上国の工業化への気運をより高めた。

 次に輸入代替工業化政策の成長メカニズムを修正する面がある。輸入代替工業化政策は先進国の技術的影響を強く受けて輸入代替財の生産をより資本集約度の高いものにする傾向があった。これは国内の産業の担い手が財閥や一部の特権的な資本家であった場合には経営的に有利であるためにますますそういった傾向をもった。多くの途上国は労働過剰国であった。資本集約的産業は雇用創出能力が弱いために過剰な労働力を吸収することができず、国民経済の成長も頭打ちとなり、経済の成長局面・好循環局面に移ることができなかった。

 一方、輸出志向工業化政策はそういった途上国の労働過剰のマイナス面をプラス面にすることができる。労働過剰であるならば需要と供給の原理のとおり労働力は安価になる。また先進国の高価な労働力に比べればさらに相対的に安価になる。その安価な労働力を武器にして労働集約型産業に力を入れた。輸出志向工業化政策の発展メカニズムは労働集約的な産業の製品を大規模に輸出して先進国の同一産業を急テンポで追い上げ、それを牽引力として他の基幹産業などの工業化を進めるというものである。

 中国の開放政策は労働過剰で安価な労働力を多くもつ中国において非常に適切な政策であるといえる。

 輸出志向工業化政策にもマイナス面がある。それは貿易依存度が高くなることである。貿易依存度が高いと国内経済が世界経済の影響をまともに受けてしまう。また、企業は常に国際競争力を保たなければならない。

 現在、中国は貿易依存度が高い。更に主な貿易相手国は米国と日本である。これは中国にとって喜ばしいことではない。


第2節 ロストウ離陸の概念

1.発展段階説
 ロストウの発展段階説は5段階からなる。それぞれの段階について簡単に説明し、中国に当てはめてみる。
 第1段階は伝統的社会である。伝統的社会は産業構造が在来産業のモノカルチュアで、労働生産性も低く、経済活動の大部分が食料確保のための農業生産に向けられている。これを中国に当てはめれば、すでに前章で触れたが1911年の辛亥革命以前とすることができる。

 第2段階は離陸先行期である。経済の成長局面・好循環局面に移る離陸のための必要条件が徐々に満たされていく期間である。経済の成長局面・好循環局面とは具体的には1人当たりのGNPが持続的に上昇していく期間である。離陸先行期のもっとも大きな特徴は国民の価値観の変化であると思う。今日多くの途上国が貧困にあえいでいる。貧困を解消するために経済成長が必要とされる。開発経済学の発展にはさまざまな経緯があるが基本的には経済成長による途上国の貧困の解消を1つの目標としている。しかし、国民の価値観が変化せず伝統的な社会にとどまろうとするならば、経済成長はできないし、貧困も解消されない。私はこの点にも関心を持っている。

 ロストウがあげているその他の離陸先行期の特徴として農業技術の改良、家内手工業、商業、サ−ビス業が徐々に拡大すること、貯蓄意欲が増大し企業家が台頭すること、教育の普及などをあげている。これも中国に当てはめれば前章で触れたように1911年の辛亥革命から1951年までとなる。私が先ほど重要視した国民の価値観について更に検討すると中国はいくらか特殊性がある。一般的には辛亥革命を担った革命家たちの努力と社会が変化したことによって徐々に国民的市民的な意識を人民が持つようになったということができるだろう。しかし、先ほど指摘した離陸先行期は中国が半植民地化されていた時期ともほぼ当てはまる。ここでも民族資本的な概念があるように思う。つまり、自立的な国家建設のための自立的な経済建設である。中国では経済成長のために必要な価値観の変化がナショナリズムに触発されて起こったように思う。これは中国だけに限らないが、中国のその後の経済成長に大きな影響を与えた。農業技術の改良、教育の普及といったその他の要素に関しては資料がないのでここでは言及しない。

 第3段階は離陸期である。離陸期になると貯蓄率と投資率が急速に高まり、1人当りGNPは持続的な上昇を開始する。ロストウ離陸期の特徴を3つあげている。1つめは投資率が5%以下から10%以上に増加することである。2つめは主導産業があらわれ他の産業部門の成長を誘発することである。3つめは経済成長を持続するための政治的・社会的・制度的な枠組みが成立することである。これら3つの判定基準に基づいてロストウは中国の離陸期は1952年から始まったと推定している。本論文では中国の離陸期に関してロストウの推定を尊重している。しかし1人当りGNPの持続的な上昇という点を重視するといささか結論が異なってくるように思う。

 第4段階は成熟化の時代である。離陸期のあとにくる波動を伴う長い進歩の時期である。特徴として、近代的産業技術が全分野に広がり主導産業重化学工業になる。また産業構造は第2次産業に特化する。成熟化の時代に現在の中国が当てはまっているのかははっきりとしない。中国が今なお持続的な経済成長を続けていることを重視すれば未だ離陸期にあるといえる。他の要素を当てはめようとすれば、簡単に当てはめることができないので中国の歴史と現状は特殊であると言わざるを得ない。たとえば中国は軽工業よりも先に重化学工業が発展しているし、高い工業化率もずいぶん早く達成している。

 第5段階は高度大量消費の時代である。成熟化の時代を経て国民一般の所得水準が更に上昇すると消費需要の構造が変化し耐久消費財サ−ビスに対する需要が爆発的に増大する。具体的には大衆乗用車や家庭電器機器が普及する。米国では1920年代の初めに西欧や日本では1950年代になってからである。中国の現状は第4段階・成熟化の時代に当てはまらないのではないかと先ほどいったが、中国の沿海部に目を向けると第5段階・高度大量消費の時代の条件をほぼ満たしてしまう。沿海部においても大衆乗用車はまだそれほど普及していないが家庭電気機器はかなり普及している。また、中国国内の産業はこれらの大量の需要に応えられるだけの生産設備をもっている。生産能力が過剰であるためにそれが問題となっているほどである。

 ロストウの発展段階説を簡単に解説しながらそれを中国に当てはめてきたが、現在の中国は第3、第4、第5段階の特徴をすべてもっているようである。これは第一章で触れた様々な中国の特徴から生じたものであると思う。こういった一般的な理論に当てはまらない点は中国経済の特殊性であると思う。


2.停滞と離陸
 発展段階説はドイツ歴史学派のリスト等によって一般に知られているが、ロストウの発展段階説はそれらといささか異なる。その違いとはもっとも関心が持たれている経済成長・工業化のための要件を明示している点である。

 途上国はなぜ経済成長をすることができないのか? まず思い浮かぶのは各国の初期条件である。具体的には乏しい天然資源、輸入代替工業化政策を思い浮べれば小さな国内市場などがあろう。しかし、日本やシンガポ−ルの例をみれば明らかなようにそれらは致命的な障害とはならない。では、先ほど離陸のための条件で示した10%以上の投資率であろうか。しかし、経済成長をするためには10%以上の投資率が必要であることはわかっていても停滞のメカニズムが存在しそれを実現することは容易なことではない。

 停滞のメカニズムの説明はいくらか長くなる。経済成長をするためには投資率を上昇させなければならない。投資率を上昇させるためには高い貯蓄率が必要であり、高い貯蓄率のためには1人当たり所得が上昇しなければならない。それでは1人当たりの所得を上昇させればよいという結論になるが、1人当たりの所得の上昇は基本的に経済成長に伴って上昇する。または1人当たりの所得を上昇させるためには高い労働生産性が必要であるがそのためにはまた投資が必要なのである。ここまでなら投資をするための資金を借りてくれば問題は解決されるように思うが、1人当たり所得の上昇が人口の増加を誘発せざるを得ないというマルサス的人口法則が作用し問題を複雑にする。停滞のメカニズムとはこのように複雑である。

 停滞のメカニズムをふまえた上で簡単に離陸のための条件を言えば、まず資金を借りるなどして集め投資する。その国が離陸先行期の条件を満たしていれば、投資によって経済がいくぶん拡大・成長する。その経済の拡大・成長を持続的なものとするためにはなお成長率が人口の増加率を超えなければならないということである。

 このような停滞のメカニズムを理解するためには図2−1ヒギンズ=熊谷の停滞離陸を参考とするのがよい。縦軸のrとsはそれぞれマルサス的人口増加率分を補う必要投資率貯蓄率である。横軸のyは1人当たり所得水準である。

図2−1 ヒギンズ=熊谷の停滞と離陸

図1−1 省別1人当たりGNP
出所:福岡正夫『ゼミナール経済学入門』日本経済新聞社,1997年,533頁。

 図2−1からは、停滞のメカニズムから抜ける出すためにはY* * の所得水準を超える生産性の上昇が必要であることがわかる。更にr曲線の下方へのシフト又はs曲線の上方へのシフトによってY* * の水準そのものを左に移行させ、停滞のメカニズムからの脱出をより容易にすることもできる。

 r曲線は人口増加率nに依存している。だからr曲線を下方にシフトさせるためには人口増加率を引き下げればよい。蛇足になるが人口増加率は人道的な国際的努力などによって途上国の医療・衛生が改善され死亡率が引き下がったことにより引き上げられたので経済成長のために人口増加率を引き下げる努力をすることはここでの議論以上に重要である。中国は以前から人口抑制政策を採っている。人権問題に抵触しかねない人口抑制政策はこのような理論的な裏付けがある。人権を個人の権利から見れば人口抑制政策は個人の権利を制限するものとなりマイナスである。一方、人権を生存権・人間らしく生きる権利・国民福祉の増大という面から見ると人口抑制政策はやむを得ないものとなり、どちらかというとプラスである。中国の人口抑制政策は理論に基づいた合理的な政策であるが、世界一の人口を持つ特殊性故の政策でもある。

 s曲線は貯蓄率なので上方にシフトさせるためには貯蓄性向を高めなければならない。途上国においても裕福な所得階層は存在する。しかし、これらの裕福な所得階層は余分な財力を投資又は貯蓄せずに消費してしまう傾向がある。貯蓄もタンス預金のような死蔵では意味がなく金融機関に預けられなければ意味がない。図においてs曲線は貯蓄率を表し、貯蓄率投資比率が仮定されている。更に、高い投資比率が経済成長をもたらすためにはその投資が労働生産性の上昇を伴う投資でなければならない。これらの過程を実現するためには銀行制度を始めとする金融組織の整備が重要である。

 中国は高い貯蓄性向を持ち、現在は少なくとも離陸期には入っているので貯蓄性向を高める点に関してはあまり当てはまらないかもしれない。しかし、貯蓄率投資比率にするための努力は続けられなければならない。何度か講演で現在の中国は金融組織の整備が重要という意見を聞いたのでこのあたりの議論といくらか関係があるのかしらと思った。


第3節 二重経済発展モデル

 二重経済発展モデルとはルイス、ラニス=フェイ、ジョルゲゾン等によって唱えられ、それぞれ若干の違いがあるが、基本的に経済は在来農業部門近代的工業部門があり、それら2部門の中で近代的工業部門のウェイトが大きくなる過程を経済発展であると考える。本章では図2−2・ラニス=フェイの二重経済モデルを使うことにする。

図2−2 ラニス=フェイの二重経済モデル

図1−1 省別1人当たりGNP
出所:福岡正夫『ゼミナール経済学入門』日本経済新聞社,1997年,537頁。

 図2ー2は上図の農業部門と下図の工業部門から成り立っており、それぞれの横軸OaAとOmMは当該経済の総労働人口を表している。また上図の曲線OaRZXと下図の曲線WQSはそれぞれの限界生産力曲線を表している。なお上図の曲線OaRZXが上に凸の形に描かれるのは収穫逓減法則を仮定してのことであり、その曲線のZX間が水平になっているのは限界生産力が0になると仮定しているからである。

 では図2ー2を使って工業化のメカニズムを説明する。基本的には工業部門が創成され農業部門の労働力がそれに供給され工業化が達成される。農業部門から工業部門への労働力の供給又は工業部門が農業部門の余剰労働力を吸収する過程は3つの段階に分けることができる。この過程を3つに分ける上で重要な概念は制度的賃金無制限労働供給である。制度的賃金とは、市場機構の影響を受けず制度的慣行で決定される賃金である。無制限労働供給とは工業部門が創成されると農業部門の制度的賃金と同額の低賃金で余剰労働力が工業部門に供給される現象である。

 第1段階は上図の横軸LAから下図の横軸OmLへの労働力移動である。上図の曲線OaRZXのZX間は限界生産力が0であるからZX間の労働人口LAは農業生産に何ら貢献していないことになる。その労働人口LAは工業部門が創成されることによって制度的賃金と同額の低賃金で工業部門に雇用される。またこの段階の工業部門労働者への食糧供給は農業労働者の減少した分で供給することができることも表している。

 第2段階は上図の横軸NLから下図の横軸LNへの労働力移動である。上図の曲線のRZ間で限界生産力はプラスになる。そのためこの段階ではもはや工業部門への食糧供給を農村部門の労働者が減少した分だけで補うことはできなくなる。つまり工業部門の農産物への需要が農業部門の供給を超過するのである。静態的、短期的には農産物価格の騰貴を引き起こし、動態的、長期的にはこれまで停滞的で再生産的な農業を拡大再生産的な農業へと変化させるきっかけとなる。また騰貴した農産物価格は工業に限界生産力の上昇を促す圧力ともなる。しかし、この段階では農業の生産性は制度的賃金水準を下回るので農業は依然として制度的賃金水準にとどまる。

 第3段階は先程の第2段階を越えた労働力移動である。上図の曲線上のR点においては限界生産力制度的賃金は一致する。上図のR点に対応するN点を越えた労働力移動ではもはや制度的賃金ではなく限界生産力に見合った賃金が支払われるようになる。この段階になると農業部門自体が近代部門化されるに至る。そのため工業部門は無制限労働供給を受けることができず高い賃金を払わなければならない。そのことは工業部門にさらに高い労働生産性を要求するのである。

 このようにラニス=フェイによる二重経済発展モデルは農業部門から工業部門への労働力移動メカニズムを明確にする。一般に二重経済発展モデルはラニス=フェイのモデルとほぼ同じであるが、ルイスのモデルはいささか異なる。ルイスは経済の発展過程を在来農業部門から近代的工業部門への移行過程という認識から更に踏み込んで経済発展とは農村から都市への労働力移動であると捉えた。農村から都市への労働力移動は多くの国の経済発展過程で観察することができる。しかしこれには例外があり農村から都市へ労働力が移動したがスラムを形成してしまいその国は必ずしも順調な経済発展をしていないというケースもある。フィリピンはその好例である。

 これを中国について当てはめてみると中国の特殊性が浮かび上がる。中国は労働力移動を制限した戸籍制度郷鎮企業があった。戸籍制度に関しては是非があるかも知れないが、この制度があったために中国にはスラムが形成されなっかったということができる。また、郷鎮企業に関しても面白いことがわかる。ルイスは農村から都市への労働力の移動はイコ−ル在来農業部門から近代的工業部門への労働力移動と考えていたと思われる。しかし、郷鎮企業は農村において近代的工業部門を興したものである。郷鎮企業に関しては次章で更に詳しく考察していこうと思う。


第3章 郷鎮企業について

第1節 発展過程

1、 農業生産合作社、人民公社営農村工業、生産大隊営農村工業

 郷鎮企業は1978年以降に現われた企業形態である。1996年の時点で郷鎮企業の総生産額はGNPの36%を占めている。郷鎮企業は前章でも触れたように農村における余剰労働力の吸収、農村生活基盤の整備、農村人口の都市集中の回避、農村と都市の格差の是正などの面で大きな役割を果している。

 郷鎮企業は1949年の新中国の成立と伴に計画経済を採用し、1978年の改革開放政策から市場志向経済となった中国の歴史から生まれた。郷鎮企業のル−ツをたどっていくと1951年頃に成立した農業生産合作社にたどりつく。

 農業生産合作社は農村に存在した工業製品への需要に応え、農業生産を増大させることを目的とした。あくまで農村副業であり、利益は農業生産へ投資された。

 1958年になると農村の人民公社化が図られ、農業生産合作社人民公社へと編入された。人民公社営農村工業は、農村工業化、農業機械化を目標としてかかげ政府資金も投入されたが、かえって農村経済を疲弊させる結果を招き、あまり成功しなかった。そのため中央政府は以前の農村副業を中心とする経営に戻すために人民公社の中の生産隊を経営主体にするなどの改善を行なった。中国における農村工業は郷鎮企業が現われるまではあくまで農業生産を発展させるための手段であった。またそれは中央政府の政策によって大きな影響を受けて、決して順調に発展しなかったことは表3−1からもわかる。しかし、それら農村工業が中央政府の政策によって制約を受けながらも農村に存在した需要に供給してきたことは注目するべき点である。また非難されがちな中央政府の政策も図3−2から類推するとそうはならないかもしれない。どちらも今日の郷鎮企業発展のためには欠かせない要素であったということができるだろう。

表3−1 経営形態別農村工業生産額の推移
                    (単位=億元)
農村工業 人民公社営 生産隊営
1958 62.5
1959 100.0
1960 50.0
1961 51.8 19.8 22.0
1962 40.9 7.9 33.0
1963 40.2 4.2 36.0
1964 44.6 4.6 36.0
1965 29.3 5.3 24.0
1970 67.6 27.6 40.0
1971 92.0 39.1 52.9
1972 110.6 46.0 64.6
1973 126.4 54.8 71.6
1974 151.3 66.8 84.5
1975 197.8 86.8 111.0
1978 385.3
1979 424.6
1980 506.4
出所:舒小明『中国の農業セクターにおける郷鎮企業の一考察』,1997年,6頁。
図3−2 農村工業の生産額構成比(1978年)
図3−2 農村工業の生産額構成比(1978年)
出所:舒小明『中国の農業セクターにおける郷鎮企業の一考察』,1997年,7頁より作成。

2.郷鎮企業

 郷鎮企業のル−ツをたどれば、先ほどの農業生産合作社人民公社営農村工業生産大隊営農村工業をあげることができるが、今日郷鎮企業と呼ばれているものは中国の戸籍上分類されている農民が経営している多種多様な企業群を総称するものである。

 郷鎮企業の"郷"と"鎮"はどちらも中国の行政単位である。中国には22の"省"、5つの"自治区"、北京、上海、天津、重慶の4"中央直轄市"、合計31の省市があり、それらを一級行政単位としている。更にこれらに属する"市"・"区"があり、そしてその下に"県"がある。県の下に第四級行政単位の"郷"と"鎮"がある。郷と鎮の下にはもう一つ"村"がある。

 郷鎮企業はその名の通り行政単位の"郷"と"鎮"によって経営されていると考えても間違えではないがそれは狭義の郷鎮企業である。

 広義の郷鎮企業は多種多様な企業群の総称なのである。それは所有形態によって以下のように分類されている。

  1. 郷鎮企業。企業の資産が郷の全体の農民に属し、企業が郷政府によって運営される集団所有制企業である。これには、郷と郷の連合経営、郷と村の連合 経営、郷と国有企業の連合経営、郷と鎮の集団所有制企業の連合経営、郷と外国資本、香港、台湾、マカオなど華僑資本の連合経営の企業も含まれている。
  2. 村営企業。企業の資産が村全体に属し、企業が村全体によって運営される集団所有制企業。もちろん、村政府を経営主体として、多様な連合経営の企業も含まれる。
  3. 聨戸企業。企業の資産が一部の農民に属し、資産所有者である農民が運営する合作制企業である。これには、農民と農民の連合、農民と外国資本、華僑資本の連合経営の企業が含まれている。
  4. 個人企業。企業資産が個人に属し、国家規定の範囲内で従業員を雇って、資本主義的経営を営む零細企業である。

 郷鎮企業の定義はおよそ以上のようになるが、もっとも重要なのは1978年以降の改革開放政策による市場志向経済化・経済的自由化傾向がもたらした変化であり、農村工業の役割が農業生産の補完だけではなくなったことである。具体的には1979年に国務院が発表した「社隊企業を発展させるための若干の問題に関する規定(試行草案)」に示されている。その規定によれば、郷鎮企業の発展の目的は第一には農業生産に、さらに国民生活、大工業、輸出の振興に奉仕することにあり、経営にあたっては、「因地制易」(各地の事情にふさわしい方法、手段)の原則のもとに、現地の資源を基本とし、原料、動力の確保を巡って、先進的な大規模工業と争奪することは避けるべきであるとしている。

 郷鎮企業経営を許容する範囲として具体的に以下のような業種をあげている。

  1. 農業関連の消費財生産財の生産。つまり、農副産品加工、中小農具製造、農業用機械の修理とその部品加工、肥料・農薬・飼料加工。
  2. 工業用原料、エネルギー、建築材料の採掘、生産・加工。具体的には、石炭、鉱産物の採掘、選鉱、メタンガス、レンガ、石炭、セメントの製造、水力・火力による1200万ワット以下の規模の発電。
  3. 建築、運輸、荷物の積み降ろし。
  4. 伝統的な工芸品、輸出向け商品の生産、および補償貿易。
  5. 縫製、修理、旅館、飲食業。さらに、条件の許す地方では、
  6. 大規模工業の部品・半製品の生産請負。
  7. 半端なもの、あるいは余分な原材料、廃棄物などを利用した小規模な化学、金属、冶金、および日用百貨の生産。

 郷鎮企業は中央政府によってこのような制限を受けながらも発展し、今日では中国経済を支える大きな柱となっている。次節では更に郷鎮企業を統計資料で分析する。


第2節 統計分析

 郷鎮企業は中国経済を支える重要な柱の1つになっている。本節では統計資料を用い、できるだけ正確に把握することを目標とする。

表3−3 郷鎮企業企業数の推移 (単位:万件)
  郷鎮企業 村営企業 聨戸企業 個人企業 合計
1984年 40.2 146.1 90.6 329.6 606.5
1989年 40.6 113.0 107.0 1,608.0 1,868.6
1995年 42.0 120.0 96.0 1,945.0 2,203.0
資料:『中国郷鎮企業年鑑』各年版から作成。
出所:舒小明『中国の農業セクターにおける郷鎮企業の一考察』,1997年,12頁。

 表3ー3をみると、1984年から約10年間のあいだ、郷鎮企業村営企業連戸企業の数はそれぞれ急速に減ったが、個人企業の数だけは大幅な伸びを示していることがわかる。それは1983年に個人企業を制度的に認めた結果である。個人企業は1995年のデータにおいて実に全郷鎮企業数の80%ぐらいを占め、企業数では郷鎮企業の中心的存在となっている。

表3−4 郷鎮企業従業員数の推移 (単位:万人)
  郷鎮企業 村営企業 聨戸企業 個人企業 合計
1984年 1,879 2,103 522 702 5,206
1989年 2,384 2,337 884 3,763 9,368
1995年 3,029 3,031 874 5,927 12,861
資料:『中国郷鎮企業年鑑』各年版から作成。
出所:舒小明『中国の農業セクターにおける郷鎮企業の一考察』,1997年,12頁。

 表3ー4は従業員数の推移である。従業員数においても個人企業の増加傾向が著しいことがわかる。

表3−5 郷鎮企業の生産額の推移 (単位:億元)
  郷鎮企業 村営企業 聨戸企業 個人企業 合計
1984年 818 649 127 118 1,712
1989年 2,673 2,183 614 1,959 7,429
1995年 15,988 16,154 4,244 20,913 57,299
資料:『中国郷鎮企業年鑑』各年版から作成。
出所:舒小明『中国の農業セクターにおける郷鎮企業の一考察』,1997年,13頁。

 表3ー3企業数、表3−4従業員数、表3ー5生産額のすべてを総合してみると新たなことがわかる。それは中国の郷鎮企業は、相対的に少数で規模の大きい郷・村営企業と多数で小さな個人企業から構成されていることである。

 中国経済を研究するためにはまず中国の現状をできるだけ正確に把握しなければならない。そのために統計資料を使うことは非常に重要である。例えば中国の国有企業問題についての議論を考えてみる。国有企業問題の中でも重要な問題として失業問題がある。そこで郷鎮企業に国有企業従業員の吸収を期待するという議論がある。なるほど郷鎮企業は中国経済を支える大きな柱の1つであるからできるかもしれない。しかし、先程のように統計資料を使ってより正確に郷鎮企業を把握していれば、簡単にその意見にうなずくことはできない。従業員数に注目すれば零細的な個人企業が非常に多いのである。例えば、郷鎮企業が国有企業の失業者を引き受けたとする。すると個人企業が多くの人を引き受けることになる。個人企業は先程の総合的な統計分析から労働生産性が低いであろうことが推定できる。工業化、経済成長の条件としてロストウ離陸の概念、二重経済発展モデルでは、労働生産性の上昇を挙げていた。つまり、継続的な経済成長のためには労働生産性の上昇が必要なのである。

 郷鎮企業が国有企業改革に伴う失業者を吸収するという意見は姑息な手段になりかねない。以前の私はこのように中国の現状を把握する前に新聞・雑誌で取り上げられている問題をあれこれ考えていることが多くあった。(「現代中国について」や「産経新聞国際面のアジア」を参照。)今では中国経済をよりよく理解するために統計的アプローチを重視するようになった。

 しかし、統計的アプローチにも欠点があるように思う。それは誰が統計を取ったのかということである。適切な例えでないかもしれないが、日本の経済企画庁の景気に対する発表はその一例である。政府の発表は立場や経済に対する影響力から必ずしも正確に現状を反映したものではない。中国の統計資料は多くが政府発表であり、また巨大さ故に正確な統計を取ることは困難である等を指摘することができると思う。

 私はある人にそういったことをわかった上で研究対象の本当の姿を把握し、それを論文として発表することが学者の仕事であると言われた。卒業論文に何を書こうかと考えていた私は論文とはそういうものなのかと思った。また、私はそれまで非現実的・権威主義的という語彙で私の中にあったアカデミズムという言葉が本来はこういうことだったのではないかと思った。(アカデミズム・学問についての考察は、「学問は必ずしも社会の役に立たないのは当然」「学問〜自己満足の世界〜」も参照されたい。)


おわりに

 本論文は締切に間に合わせるために泥縄的に作成された。以前から卒業論文は大学で学んだすべてのものを出し切って書こうと思っていが、大学院への進学を学部の4年次になってから決めたのでそれは不可能であると思いあきらめた。そこで私はパソコンに興味を持っていたので日本、台湾、中国を取り上げてパソコン産業について書くことにした。できるだけよいものをと思っていたので大学院進学のための勉強をしながら資料も少しづつ集めた。夏休みには中国旅行に行く機会があったので友人に頼んで現地の工場も見学した。そうこうしているうちに進学する大学院が決定したので時間ができた。卒業論文を書くための参考になるのではないかと思い、色々な講演会などに参加し、色々な意見をきいた。

 色々な意見を聞いて見聞が広まった。そして自分が勉強不足であることを痛感した。そしてそれまで書こうと思っていたことはつまらなく思え書くのをやめた。そうこうしているうちに一回目の卒業論文の提出日がきたが何も書けなかった。先生にお叱りを受けたがその時は何となく卒業論文を書けないのではないかと思っていた。しかしやらねばならないことなので、強いて書くとしたら、中国経済について新聞や雑誌に書いてあることをただ単にまとめたり、中国の特殊性にばかり目を向けたものではなく、論文らしい論文を書きたいと思った。(論文についての考察は、「私的空間と公的社会をつなぐ方法−論文−」「学問〜自己満足の世界〜」も参照されたい。)

 本論文は泥縄的だが、自分なりにできるだけ論文らしい論文にしようと思って作った。ここまで読んでいただいても何を言おうとしているのか理解していただけないかも知れませんので少し補足する。第1章の中国経済の特徴では私の漠然とした中国経済観が書いてある。第2章の開発経済学からのアプローチでは理論を用いることによってできるだけ客観的、科学的に分析した。第3章の郷鎮企業についてでは私の漠然とした主観と理論的なアプロ−チだけでは不十分だと思い、できるだけ統計資料を使って中国の現実を把握するようにした。中国経済全体では漠然としてしまうので手元に資料があった郷鎮企業に対象を絞った。

 この論文を書くことを通じてこれからの課題がずいぶんはっきりしたように思う。最後にソフォモアセミナ−から3年間もの間指導していただいた張紀潯先生に感謝して本論文の結びとする。


参考文献

  • 福岡正夫(1986)『ゼミナール経済学入門』日本経済新聞社。[Rakuten]
  • 鳥居泰彦(1979)『経済発展理論』東洋経済新報社。[Amazon ]
  • 張紀潯(1995)『中国経済のフロンティア』名著刊行会。[Rakuten]
  • 石川滋(1993)「中国の大きな移行期」『青山国際政経済論集 第28号』。
  • J.N.バクワッティ編、石川滋編訳(1978)『経済学と世界秩序―世界秩序モデルの構想』岩波書店。[Amazon]
  • 栗林純夫(1994)『中国の経済社会発展―成長制約要因の克服は可能か』人と文化社。[Amazon]
  • 日本興業銀行編(1997)『中国 2001年の産業・経済』東洋経済新報社。[Amazon]
  • 舒小明(1998)「中国の農業セクターにおける郷鎮企業の一考察」大東文化大学大学院修士論文。

補足、解説

民族資本
 この概念の背景には民族自決の概念があると思われる。民族自決のためには民族を単位とした国家建設が必要であり、その国家が独立するためには自立的な経済建設は欠かせない。自立的な経済建設のためには外国資本ではなく民族資本でなければならないという考え方。

ハーシュマンの後方連鎖効果
 ハーシュマンの不均衡成長説を説明する概念。前方連鎖効果と一対になる。彼の説は経済成長が長期的には市場メカニズムによって均衡に向かうという経験則を下敷きにし、具体的な発展戦略としては前方連鎖効果と後方連鎖効果の合計がもっとも大きな産業にまず集中的に投資すべきであるとする。前方連鎖効果はある産業の発展による生産物の供給が、それを投入物として用いる他の産業の発展を促進する効果であり、後方連鎖効果はある産業による投入物の購入がそれを作っている産業の販路を拡大する効果である。この連鎖効果の分析を実際に行うと一般的に後方連鎖効果が大きいことがわかる。このことから具体的な経済発展戦略としては基礎産業に投資するよりも最終需要に近い産業に投資する方が効率的であることがわかる。

自力更生
 毛沢東指導体制下で採られた保護主義というよりも鎖国的な経済政策。当時の厳しい国際環境の中で中国が採らざるを得なかった政策である。「国防は経済よりも優先される」というマルサスの指摘によりいくらか一般化することができる。

農村工業
 基本的には"人民公社営+生産隊営=農村工業"であるが統計数字をそのまま使っているので必ずしもそうはならない。それは統計上の誤差である。


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