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経済哲学のすすめ!

ポパーの「三つの世界」を起点にして

一、序

 まず、本論文の緒となった「起点として」のポパーの説明から始めます。

 周知のように、ポパーは、彼の『客観的知識』のなかで「三つの世界」の図式を 提示しました。彼は、それについてその後もいろいろなところで触れていますが、 最初に提出したその定義を要約すれば、次のとおりです。

世界1=「物理的状態の世界」 世界2=「認識主体の世界」 世界3=「人間の精神の所産の世界」

 つづけて、ポパーは、この世界3について三つのテーゼを主張します。これも要 約すれば、次のようになります。

 認識論の研究は、認識主体とは切り離して客観的におこなわれる。つまり、認識 の客観的過程とは、批判的合理主義による過程であり、この過程が認識主体とは独 立して実在しうることを証明できる。その根拠は、その過程でとり扱われる「思考 の客観的内容」が存在しそしてそれが自律的に成長するからである。言葉を換えれ ば、この「思考の客観的内容」が世界3である。この世界3は、論理的に、「三つ の世界」のなかで世界1・世界2に対応する知識の客観的実在として識別される。 したがって、認識論の客観的な研究とは、この世界3を研究することである。それ ゆえ、認識論の主要な仕事は、世界3の分析にあり、そして世界3の分析は、科学 的知識の分析を意味する。このことからして、これまでの伝統的認識論者達は主観 的意識の世界2の研究に彼らの努力を傾注してきたが、しかしながら、それは認識 論研究の的を外したものであった、と。

 このことを別の観点から解釈すれば、ポパーは、「認識主体」と「認識対象」と いうこれまでの伝統的な認識の二分法のもつ不十分さを克服しようとした試みであ ったといえます。つまり、その不十分さというのは、認識主体−より実際的には「 観測主体」ですが−が、観測しようとする物理系の「外から見る」という点では客 観的であるが、しかし「見る」という「行為」を含むがゆえに主観性を残していた ことに起因していたのです。ポパーは、その認識主体の行為からもたらされた結果 物としての「認識内容」を、「認識主体」からも「認識対象しからも切り離し、そ れ自体を事実として確定するところの三分法を提唱したと考えられます。そして、 このことにより、より徹底した客観化を押し進めたといえるでしょう。この試みは、 経験による知識が普遍的であることを保証する完全枚挙ということが不可能である が故に、それは決して普遍性をもちえない、という「ヒュームの問題」の解決を探 し求める道程のなかでおこなわれました。そしてその問題は、次のように解決され たのです。すなわち、一方では、「認識内容」は客観的存在物として存在しますが、 他方、それが普遍的であるか香かという在り様は、「見る」という行為の結果物で あるためどこまでも仮説という姿をとるのである、と。そしてポパーは、このよう な「認識内容」の存在についての客観性を、自然主義的ではなく、論理的に証明し たのです。この論理的証明の過程で、ポパーは、その「認識内容」の世界から認識 の主体はもちろん物質的な存在物さえも追いだします。彼はそのおのおのに世界2 と世界1という場所をあたえる一方で、「批判的議論」という自律的基準をもつが 故に自律的な、世界3という場所をその「認識内容」にあたえたのです。

 しかし、私にはここで次のような疑問がうかんできます。

 認識主体の存在しない認識「論」が、はたして存在論的にも論理的にもなりたつ のであろうか。それには否定的に答えるしかありません。存在論的に成り立たない という理由は、「認識」の存在とは、単に物がそこに存在するという意味での存在 とは異なり、存在する認識者の認識としての存在を指し示すからです。もちろん、 「認識の内容」が、認識者の認識する対象という文脈で存在すると主張するのなら ば、「認識の内容」は、あたかも認識の対象として物理的存在が存在するように存 在します。しかし物理的存在は、存在論的には、それ以上に認識者とは独立してつ まり即自的に存在するのです。しかし、「認識」そのものの存在は、認識者の属性 としてしか存在できません。こうして、認識「論」を研究しようとすれば、存在論 的に「認識者のいない認識」は不可能なのです。次に、「論理的」に成り立たない という理由について考祭してみましょう。ポパーによる「三つの世界」の三分法は、 世界1も世界3も、認識主体を設定することによってのみ、論理的対概念として存 在できることを物語っています。これは、論理的に認識主体の住む世界2との相互 作用を前提にしていることなのです。

 さらに見方をかえていえば、このような図式化つまり世界3の提出も、またそれ の分析も、それ自身、存在論的にも論理的にも認識主体の行為なのです。この図式 は、認識のあり方を研究するものであり、それはわれわれがいかに認識という営為 をなしているか、ということの研究です。結局、ポパーの世界3のなかで展開され る「自律的な」動きは、認識主体の認識の営為の映し絵にほかならないと考えられ ます。ポパーの提唱する仮説の自律的な試行錯誤過程は、認識主体が反証可能な仮 説を提出し、それを反証というテストにかけて排除し、また新たな仮説を提出する という、認識主体の批判的な行為の反映なのです。

 ここで、ポパーの主張する客観性についてもいま少し言及しておきましょう。ポ パーの主張に忠実にしたがえば、主観的である認識主体が客観的な存在である世界 3に少しでも触れれば、その途端、認識の客観性は消えてしまうことになります。 認識論の重要な問題の一つは、「(主観的身分から離れることのできない)私達の 認識は、どのような客観性を主張しているのかということです。ポパーによれば 、知識が「ある」というだけでは「客観的に」存在することにはなりません。客観 性は、彼の死活的な基準である反証可能性によって与えられるのです。しかしここ に、「反証可能な内容あるいは言明は、どのようなタイプをしているのか。」とい う複雑な問題が生じます。とくに、社会についての言明をなす場合、しばしば反証 そのものが困難となります。そこで、ポパーも、「開かれた」態度、つまり「合理 的な批判」という認識主体の態度に客観性を求めたのではないでしょうか。とくに、 私達は、社会を研究する認識主体であると同時に、社会の構成になにほどかの影響 をもつ実践的行動主体でもありますから、認識主体自身の営為が分析される必要が あるのです。

 もし、ポパーの図式が、認識論の研究におけるひとつの作業仮説あるいは「約束 的図式」であるということでしたら、その資格では私は批判しません。けれども、 世界3の研究が「認識論にとって決定的重要性をもつ」(〔3〕130頁)という 主張には私は与しません。私は、認識論の研究は、認識とはいかなる構造を有して いるかという認識の構造の問題よりも、認識主体はいかにして認識するかという認 識主体の営為の研究であるとおもっています。以下、この方針にそってこれから述 べていきますが、このことは、「その認識はどのような特徴、いいかえればどのよ うな性質を有しているか。」という、私が認識の性質問題とよぶ問題を提起するこ とになります。

 それではひとまずポパーを離れて、私の「三つの世界」を図式化し、それについ て論じていきましょう。

 私は、次のように「経済学における三つの世界」を定義し、それぞれにポパーと は名称の点だけで類似している名前を冠します。

(1)「経済現象とそれに携わる認識主観から構成される世界」=第T世界 (2)「経済的認識の意味内容とそれに携わる認識主観から構成される世界」=第U世界 (3)「経済的認識の論理内容とそれに携わる認識主観から構成される世界」=第V世界

もちろん、こうしたパターン化にはさまざまな困難が生じます。これらのうちには、 極端化あるいは単純化に伴う不可避的な誤解がありますが、しかし、最も誤解を生み そうなものは、「認識主観」という用語でしょう。これは、具体的な一人の人間を意 味しているのではありません。私は、この用語によって認識主体の認識機能を指示さ せています。特にこのことに留意したうえで、それぞれの世界についての考祭に進ん でいきましょう。

浦上博逵「経済学再考」『現代のエスプリ 経済学:危機から明日へ