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ある日本語教師の上海ロケ日誌

 日本のある大手映画会社の上海ロケに参加した一日本語教師の日誌です。

4/10 日本語の勉強を始める、4/20 上海入り、4/25 オールスタッフ顔合わせ、4/27 クランクイン、4/28 日本語の台詞を始めて撮影、5/1 労働節の休日、5/3 日本語の台詞を9時間勉強、5/6 Oと相互学習(1)、5/8 寿司と日本酒を買う、5/10 ラッシュ(1)、5/11 監督と衝突!?、5/13 日本語の台詞がないときは、5/14 エッグタルトが好き、5/15 Oと相互学習(2)、5/18 馬に乗る、5/19 ラッシュ(2)、5/22 ご機嫌ななめ、5/23 インタビュー、5/24 Oさんのサイン獲得計画、5/25 通訳は難しい(1)、5/26 やかんをプレゼント、5/27 通訳は難しい(2)、5/28 7時間待つ、5/29 カンペを使う、6/1 武漢から戻ると…、6/2 上海ロケを終える、6/3 北京へ

4/10 日本語の勉強を始める

 中国人俳優のSが日本語の勉強を始めたのは、4月10日頃からです。彼はそれまで全く日本語を勉強したことがなかったそうです。ですから、もちろん”あいうえお”も全く知らなかったわけです。そんな彼なのに撮影予定の4月28日までに正確な発音で日本語の台詞を覚え、更に日本語でもきちんと演技をするという目標を立てたのです。

 実は、私は一からSに教えたわけではありません。北京にいた4月19日までは基本的にJ先生が彼の日本語指導をしました。J先生の都合が悪く、上海にいけないので、私に依頼が来ました。私は15日と18日にJ先生と一緒にSの日本語指導をしました。これはSとの顔合わせという意味もありましたが、何よりもJ先生の指導方針をふまえた上で、彼にあった指導方法を模索しなければならなかったからです。

 勉強を始めた当日には、まったく口がまわらず頭を抱えていた彼ですが、J先生から毎日3時間のレッスンを受け、更に録音されたテープを毎日何時間も聞くなど努力したので18日に会った時には、どうにかなりそうだという希望が見えてきました。


4/20 上海入り

 映画の撮影は上海なのでSと私は20日に飛行機で上海入りしました。14時の飛行機に乗るので、13時に空港のロビーで待ち合わせました。Sはサングラスをかけていましたが、空港ではかなりの人に気づかれました。何人かの人にサインを求められましたが、時間がないのでほとんど断りました。それでも列で待っているときは、サインをしたので3、4人にサインしました。上海には、16時頃に着きました。空港には迎えの車が来ていたので、それに乗って、ホテルに向かいました。Sと私は別々のホテルでしたが、どちらも中国上海電影製作所(上影)の近くでした。

 Sは翌日から早速仕事です。21日は、12時半から衣装合わせをしました。撮影で使うすべての衣装を試着し、写真を撮っていました。この時は特に私の仕事はありませんでした。ただただ他のスタッフの邪魔にならないようにしていました。衣装合わせが終わったあとに監督から呼ばれました。監督はSの日本語台詞をかなり心配していました。私は監督に促音(小さいつ、つまり”っ”)や拗音(例えば、きゃきゅきょなど)が中国人にとって難しく、Sも今苦戦していると伝えました。すると監督は言いにくいところがあれば、言い換えてもよいと言ってくれました。ただし、重要な台詞は変えられないから、それは頑張ってくれとも言われました。

 22日の午前は、監督とSが言いにくい台詞について検討しました。夕方、Sから日本語のレッスンがしたいとの電話があり、彼のホテルまで行って、日本語を4時間ぐらい教えました。2日間あまり勉強しなかったら、発音がとても悪くなっていました。Sと相談し、これからは毎日午後2〜3時間レッスンすることにしました。

 23日は13時にSのところへ行き、部屋に戻ったのは23時頃でした。日本語のレッスンは断続的に18時までやりました。彼は、水泳などで体を鍛えるのが日課らしく、レッスンの途中で1時間半ほどトレーニングに行きました。とても遅くなったのは、Sと食事に行ったからです。東北料理の「大清花」という店で食べました。店には、Sの知り合いが十数人いました。後でわかったことですが、この中には「緊急迫降(CRASH LANDING)」という中国映画でSと共演した人がたくさんいました。

 24日は日本人スタッフからインターネット接続を依頼されました。2年位前までは、中国でインターネットをするのには非常に忍耐力が必要でした。しかし、今ではかなり便利になったので、中国のインターネット事情を知る人なら簡単にインターネットができます。


4/25 オールスタッフ顔合わせ

 15時から日本人と中国人のスタッフの顔合わせがありました。おそらく80人ぐらい集まったと思います。何人かは、翌日の仕事の準備のために来ていないとのことでした。この中には俳優さんやエキストラはもちろん含まれていませんから、映画は大勢のスタッフで作られるのだと感心してしまいました。16時から監督がSの日本語をチェックすることになっていました。事前に聞いていたので昨日も日本語のレッスンを3時間ぐらいしていました。Sには、16時に上影に来ればよいと伝えてありましたが、彼はスタッフ顔合わせにも参加し、ごく簡単ですが挨拶もしていました。監督からは、3時間近く時間をかけてもらい、念入りに発音をチェックしてもらいました。そのとき監督は、台詞が終わると点数をつけました。台詞によって70〜90点まで幅がありましたが、平均して80点ぐらいだったので、とりあえず合格点だったようです。監督からは、思ったよりは発音が良かったし、何とかなりそうだと言ってもらえました。

 翌日の16時からキャストの顔合わせがありました。日本人俳優のOさんもすでに上海入りしたとのことでした。Sにキャスト顔合わせに私も行った方が良いかと訊いたら、必要ないとのことなので、この日は日中韓の有名な俳優さんに会う機会を逸してしまいました。


4/27 クランクイン

 今日からクランクイン! 日本人スタッフはホテルを9時に出発していきました。しかし、今日はSを撮影するシーンがなかったので、私は引き続きSの日本語レッスンをしました。昨日の夜に上海ロケの大まかな日程を教えてもらい、その時に私の仕事は主に2つだと聞きました。1つは撮影がないときの日本語レッスン、もう1つは撮影があるときはSと一緒に現場に行き、直前まで日本語指導を行い、更に彼専属の通訳がいるわけではないからできるだけ一緒に行動し、必要があれば通訳もやってもらいたいとのことでした。だから、日本語の台詞がないときもSと一緒に現場に行って欲しいとのことでした。

 通訳まで仕事の内だとは考えていなかったので、正直困りました。2年近く北京にいたので、普通の会話は問題ありませんが、仕事で通訳をやったことがなかったからです。そこで、通訳を志望している友人にメールでアドバイスをもらいました。いろいろ教えてもらいましたが、要約すると下記がポイントのようでした。本当に役に立っているのでこの場を借りて、感謝! 感謝です! 

 更にこの仕事をするためには、映画関連の専門用語がわからないという問題もありました。もちろん、よく使いそうな用語はあらかじめ、辞書で調べておきますが、そもそも日本語ですらわかっていないという問題もあります。一例を挙げると、後に日本人スタッフから

”明日ラッシュですから、17時にホテルのロビーに集まってください”

と言われても何をするために集まるのかわかりませんでした。わかったのは、17時から何やら仕事らしいということです。ラッシュの意味について、”渋滞”ではないだろうし、Sが好きな”ボクシングでいうところのラッシュ”でもないだろうし、とあれこれ考えてしましました。結局、結論は行けばわかるだろうということになり、行った後にわかりました。

 知らないのは仕方がないことなので、撮影現場に行ったときに日本人スタッフから雑談を通して、必要最低限のことは教えてもらいました。とりわけ、日本人俳優のOさんの中国語指導をしていた方には、SがOさんとたびたび相互学習をしたので会う機会が多く、いろいろ教えてもらいました。これにもこの場を借りて、感謝! 感謝です! 


4/28 日本語の台詞を始めて撮影

 ホテルを9時に出発し、撮影現場には10時頃に入りました。撮影現場は、上海の郊外・松江県にある上海影視楽園だったので、到着までに時間がかかりました。Sは到着後すぐに着替えなどをし、リハーサルをしました。リハーサルでは日本語の台詞を何度か間違えました。1つ1つの台詞は覚えていても、言うタイミングや順番を間違えました。更にリハーサルの動作の確認では、監督と専門の通訳をはさみながら、かなり細かい動きまでチェックしていました。どうやらカメラの位置と動き方などについても非常に細かく確認しているようでした。私は現場を知らないために少し甘く考えていて、日本語の台詞を正しい発音で言えたらよいのだし、直前にたくさん練習した方が効果的だと思っていました。しかし、役者が現場に入ってからやらなければならないことはかなり多く、台詞だけに集中できないことがわかりました。

 昼食をはさんで撮影開始だったので、Sも私も撮影開始まで日本語の台詞をもう少し練習しようと思いました。驚いたことにSは、昼食をほとんど食べませんでした。理由を尋ねると眠くなると演技に影響するからで、そして何より普段から節制しているので昼はあまり食べないとのことでした。私は急いで昼食を食べ、実際の撮影に即した台詞の練習をしました。その日のSの日本語台詞は、7つあったのですが、実はそれだけ覚えればよいのではなく、自分の前の日本語台詞も聞き分ける必要がありました。そこで、撮影開始まで繰り返し、台詞のやりとりをしました。

 撮影は、立ち位置などを微妙に変え、同時にモニターチェックをしながら何度もテスト撮影をするので、非常に時間がかかるものでした。また、上空に飛行機が来ると飛び去るまで待つということを何度かしました。何回かのテスト撮影を終え、本番に入ることになりました。テスト撮影では時々台詞の順序を間違っていたので、すごく不安でした。しかし、本番では一度も日本語を誤ることなく無事に撮影を終えました。はじめての日本語台詞の撮影で一度も間違えなかったことにSは満足していましたし、私もとりあえずホッとしたのは言うまでもありません。

 翌日は、各部準備で撮影はありませんでした。しかし、昨日の撮影からいろいろな課題が浮かんできました。

 まず、台詞は自分のだけ覚えたのでは不十分だということです。この映画で彼は、一言から数センテンスのものまで長短合わせて50以上の日本語台詞を言わなければなりません。彼が日本語の台詞を話す場面は、ほとんどがその前後も日本語です。彼は少なくとも自分の日本語台詞の前にある数十の日本語台詞も聞き取る必要がありました。聞き取る練習のために私が台詞の相手をする必要がでてきました。この練習は、撮影日の数日前から始まるのですが、彼はその日の日本語のレッスンが終った後も、時間があれば日本語の台詞を口ずさみました。もちろんそういったときの発音も直しますし、場合によってはそのまま台詞のやりとりをします。だから、撮影の前日には、私も相手方の台詞を覚える必要がありましたし、中国語の台本からリアクションが必要だと思った日本語の台詞は、どんな発音か聴かせて欲しいと言われることもありました。気のせいかもしれませんが、日本語台詞が多い撮影の前日にはよく一緒に夕食を食べたような気がします。彼が食事に行くところはおいしい店が多いので、”有口福”でした。

 もう1つの課題は、S曰く、”日本語の台詞に気をとられすぎると十分な演技ができなくなる”とのことでした。また、更に中国語の台本を読んでから、彼がイメージしたものを日本語の台詞でも表現したいと言いました。これは、役者でない私には十分にできないことをSに伝え、できるだけ努力はするといいました。あとは、自分の台詞を完璧に覚え、更に前後の日本語台詞も聞き分けられるようになって、撮影のとき余裕ができれば演技に集中できるのではないかとだけ彼に言いました。


5/1 労働節の休日

 中国では5月1日から労働節という国民の祝日で1週間休みます。日本でもそれに相当するゴールデンウィークがありますが、中国の労働節は、春節(旧暦の正月)や国慶節(10月1日)と並ぶ重要な祝日です。なんと驚いたことに日本人スタッフは、この日も働いていたようです。よく”郷に入れば、郷に従え”と言いますが、そんなことなど気にせず、あくまで勤勉な日本人スタッフの皆様には本当に頭が下がります。

 前置きが長くなりましたが、私は”郷に従い”5月1日は、丸一日お休みしました。Sは、4月10日からずっと頑張って日本語を勉強してきたから、少しぐらい息抜きが必要ですし、私も4月20日からずっと日本語を教え続けていましたから、Sとは非常に簡単に交渉が成立しました。Sはこの日遠出をしたようです。日本人スタッフの皆さん、私は北京の日本語学校での仕事も含めれば4月14日の日曜日からずっと休んでいなかったので、どうか大目に見てください。

 さて、久しぶりの休みに何をしたかといえば、まずは散歩をしました。上海へ来て10日以上たったのに自分がどんなところに住んでいるのかよく分かっていませんでした。散歩した甲斐もあり、どこで何が買えるのかもほぼ把握できました。次に知り合いが上海に遊びに来たので、一緒に「1883欧越年代」という店でベトナム料理を食べ、昼間から酒を飲みました。私の他2名で飲みましたが、2人とも日本語教育関係の仕事に精通していたので、いろいろな話ができ、楽しいお酒が飲めました。私も彼らも別に予定があったので、夕方には分かれました。私は部屋で連絡があるのを待っていたのですが、キャンセルの知らせが来たので、その日は早く寝てしまいました。

 翌日、Sから連絡があったのは午後でした。せっかく勉強したものを忘れないように日本語の台詞を総復習しました。彼が中国語の台本を読んで語るイメージと日本語の台詞の間に微妙な違いがあるのを感じていたので、中国語の台本にも目を通しました。ついでに見つかった誤字等はスタッフルームにメールで知らせました。


5/3 日本語の台詞を9時間勉強

 この日は撮影があったのですが、日本語の台詞はありませんでした。出番もわずかで、14時頃から撮影を始め、遅くとも17時までには撮影が終るだろうと聞いていました。Sは、労働節中であることを配慮してくれたのか前日に来なくても良いと言ってくれました。そこで、私は彼の言葉に甘えて、その日はたまりにたまった電子メールの返信を書くつもりでした。

 私が電子メールの半分くらいに返信を書き終えた頃、突然、Sの付き人から電話があり、すぐに撮影現場に来て欲しいと言われました。どうして私が必要なのかがよく分からなかったのですが、急いでタクシーに乗って撮影現場へと行きました。着いてからわかったのは、撮影が遅れているので、Sの出番まで数時間待たなければならないということでした。私は待ち時間に日本語のレッスンをするために呼ばれたようでした。しかし、この待ち時間が延びに延びて10時間に及び、その間9時間も日本語のレッスンをすることになるとは思ってもいませんでした。よい映画を作るためには、時間を惜しまないスタッフもすごいですが、暇であったとはいえ、その間9時間も日本語のレッスンをやり続けたSには感心させられました。この日のレッスン中に、Sの日本語はかなり上達し、正しい発音に主眼をおいた大森監督の点数評価方式では、満点を連発できるまでになりました。そこで、日本人の話す速度と語調に主眼をおいた留学年数評価方式を開発しました。具体的には下記のようなやり取りです。

 S:「sensei karano dengon da。houki no…」
 私:「不太流利。留学1年左右。快一点。再来一遍!」
  (あまり流暢じゃない。日本留学1年ぐらい。ちょっと速く。もう一度言って!)
 S:「sensei karano dengon da。houki no…」
 私:「好一点。留学3年左右。houki的ho拉長音一点!」
   (ちょっとよくなった。日本留学3年ぐらい。houkiのhoを少し伸ばして!)
 S:「sensei karano dengon da。hooki no…」

 Sの日本語台詞は全部で50以上ですが、この日はこういったやり取りを1つ1つやりました。その甲斐あってか23時半頃までには留学5年ぐらいのレベルにまでなりました。

 ちなみにこの日は深夜の12時頃にやっとSの出番となり、深夜の3時に撮影を終えました。私はSと一緒の車で帰りましたが、部屋に戻ったときには深夜の4時近くになっていました。私が部屋に戻ってすぐにベットに倒れこんだのは言うまでもありませんが、撮影終了後に機材の片付け等をまだしなければならなかった他のスタッフに比べれば、これでもずいぶんいいほうなんだなぁと思いました。


5/6 Oと相互学習(1)

 今日は、日本語の台詞を撮影します。5月3日の9時間レッスンを経て、また日本語の発音が綺麗になったSはやるきまんまんでした。昨日のレッスンでは、台詞の暗誦とやり取りをしました。今朝も8時にはSの部屋に行って、昨日の復習をしました。撮影現場に向かう車の中では、互いに台本を見ずに台詞のやり取りをし、綺麗な発音の定着に努めました。

 当日は、2シーンの撮影が予定されていましたが、急遽、1シーンのみの撮影になりました。どちらのシーンも日本語の台詞があったので、Sと私はいつもより緊張していたのですが、1シーンのみでずいぶん楽になりました。Sはかなり余裕がでたのか撮影の合間に積極的に日本人俳優とも交流するようになりました。この日は日本人俳優のOさんと一緒の撮影だったので、通訳を介してですが、Oさんとも話をしました。その話の中で、自然とOさんの中国語台詞に話題が移りました。Sは、Oさんに

「外国語で演技をするのが大変なのは、自分も苦労しているからよく分かる」

と言い、

「私は君の中国語をチェックするから、君も私の日本語をチェックしてくれ」

と続けて言いました。

 Oさんもこの提案に賛成し、その場で相互学習が始まりました。まず、Sの日本語チェックから始まったのですが、こちらは十分レッスンしていたので、OさんからすぐにOKをもらえました。ただし、これはOさんが聞き取れるといったレベルを基準にしてくれたからでした。次にOさんの中国語チェックが始まったのですが、Oさんはまだあまりレッスンを受けていないらしく、どうにか聞き取れるといったレベルでした。気のせいかもしれませんが、Sは嬉々としてOさんに中国語を教えているようでした。一応、Oさんの名誉のために補足しておきますが、中国語は発音がとても複雑で、日本人がそれを短期間でマスターするのはまず不可能です。Sが頑張っていることは認めますが、Sの日本語とOさんの中国語は単純に比較できません。

 この日は、撮影が1シーンのみだったので20時半には撮影が終りました。Sと一緒に食事をすることになり、「上海新疆風味飯店」という店で新疆料理を食べました。この店の店員はあきらかに新疆人で、BGMもそれらしいものが流れていました。新疆料理には欠かせない羊肉の料理を食べましたが、北京で食べたものに比べ、かなりスパイシーでした。Sはスパイシーな新疆料理をおいしそうに食べていました。


5/8  寿司と日本酒を買う

 撮影が予定されていたので12時にSのホテルへ行き、12時半の出発まで簡単に復習をすることになっていました。しかし、ホテルに着くと出発が14時まで延期になり、撮影の進行が遅いようなら、今日は撮影がないかもしれないとSのマネージャーから告げられました。仕方がないので、14時まで日本語のレッスンをすることになりました。14時過ぎに、電話があり、結局この日は撮影をしないことになりました。おそらく5月3日のような事態が再発することを避けたのだろうと思いました。

 急に予定が空いたので、S、マネージャー、付き人、運転手及び私はやることがなくなりました。Sからは予定があれば、帰っても良いと言われましたが、特に予定がない旨を伝えると、一緒に買い物へ行くことになりました。いくつかのデパートを回りましたが、ほとんど買い物はしませんでした。デパートではSがリーバイスのジーパンを買っただけでした。時間をもてあまし始めた頃にマネージャーの携帯電話がなり、マネージャーは別行動をとることになりました。残った我々は、これから何をするのかと思っていたら、Sは友達の見舞いに行くと言いました。そして、お見舞いに寿司と日本酒を持っていくことになりました。Sは、上海には日本料理屋がたくさんあるからすぐに買えると思っていたようですが、なかなか適当な店が見つかりませんでした。誰かが外灘に「元禄回転寿司」という日本料理屋があるといったので、車を十数分飛ばして結局そこまで買いに行きました。

 寿司と日本酒が買えたので、それらをもって病院へと行きました。見舞いの相手は、私に名刺をくれました。そこには、製片人(プロデューサー)と書いてありました。彼とSはいろいろな話をしました。話は自然と撮影中の映画にも及びました。私にとって印象深かったのは次のようなやり取りでした。

 製片人:「日本語がわからないと撮影のとき、いろいろ大変だろう」
  S :「そんなことはないよ」
 製片人:「でも、なかなか思ったようには(演技が)できないだろう」
  S :「できるよ。例えば、カメラの位置なんかから、監督がどう撮りたいのか大体わかるし、どうしたら自分がきれいに撮れるかもわかっている。きれいに撮れていれば監督もOKだよ。」

 私はこんなやり取りを聞きながら、監督と俳優は、言葉だけでなく、モニターの画面を通しても会話をしているのだと思いました。

 お見舞いを終えた後、私達は「蒙羊」という店で火鍋を食べました。ちなみに火鍋とは、中国の鍋料理です。ここの火鍋は、タレをつけずに食べます。S曰く、いい肉なら、タレがなくてもおいしいそうです。食べてわかりましたが、Sの言うとおりタレがなくてもとてもおいしかったです。


5/10 ラッシュ(1)

 17時からラッシュを見ました。私が映画業界におけるラッシュの意味を知らなかったのは、4/27 クランクインに書いたとおりです。ラッシュが上映されてから、撮影が終った映像を見ることだとわかりました。私は知りませんでしたが、Sは以前からラッシュを見たがっていたとのことでした。ラッシュはスクリーンに映像が映し出されるので、撮影現場の小さなモニターよりは、完成作品をずっとイメージしやすいからだろうと思いました。

 ラッシュを見てから気づいたのですが、録音された音声は、普通の声よりも発音の悪さがはっきりでるようでした。少なくともラッシュで聞いた日本語台詞の発音は、お世辞にも上手いとは言えないものでした。S本人もそのことには気づいたようで、自分はもっと上手く台詞を言えると言っていました。これには、日本語指導としてSにまったく申し訳ないと思いました。その後は、録音部から必ずイヤホンを借りて、撮影現場ではマイクを通した音声を必ずチェックするように心がけました。

 時間が前後しますが、私はこの日初めて上海の地下鉄に乗りました。交通銀行のキャッシュカードを持っていたのですが、ホテルの近くに交通銀行がなく、地下鉄に乗って銀行のあるところまでいかなければならなかったからです。北京の地下鉄は改札口に人がいるのですが、上海は一種の自動改札になっています。まず、他の人の行動を観察してから、自分も改札口を通ろうとしたのですが、上手くいきませんでした。私が自動改札でもたついていると少し離れたところから駅員がやってきて、不機嫌そうに早口の普通語で通過の仕方を解説しました。早口だったのでよく分からず、聞き返したら更に不機嫌になり、もう一度だけ解説してくれました。なんとなくどうするのかがわかったのでそのとおりやってみたら難なく通過できました。通過できたので、一応駅員に「謝謝」とでも言っておこうと思ったのですが、駅員はすでにとっとと元の改札から離れた場所に戻っていました。


5/11 監督と衝突!?

 7時15分にSのホテルを出発することになっていたので、早起きしなければなりませんでした。6時には起き、身支度や早朝のメールチェックをし、6時半にはDバックを背負って部屋を出ました。ホテルの朝食は6時半からなので、それに合わせて少し早めに出発しました。広い食堂には、私の他には1人しかいませんでした。私はすぐに食事を済ませ、7時前にSのホテルへと行きました。

 撮影現場は車で1時間ほどでした。この日の撮影は、日本語の台詞がなかったので、車の中で日本語の台詞を練習しませんでした。その代わりに長い中国語の台詞があったのでSはその台詞を一人で確認していました。朝早かったにもかかわらず、スタッフの大半がすでに現場入りしており、その日は予定通り、撮影が始まりました。

 しかし、映画の撮影はなかなか予定通りにはいかないものらしく、午前中にSは、監督とちょっと衝突しました。リハーサルで監督から通訳を介して、撮影の動きが説明されたのですが、その時、Sから中国語の台詞と動作があわないとの意見が出ました。監督は日本人なので中国語の台詞と動作が合わないということをまったく想定していなかったらしく、慌ててその場でSの意見の検討が始まりました。実は、私は仕事の1つとして中国語の台詞でSから意見があれば、できるだけ事前に聞いておいて欲しいと言われていました。そこで、私は”マズイなぁ”と思いながら、遠巻きにSと監督とのやり取りに聞き耳を立てていました。私が聞いた限りでは、監督の方が少し撮影方法を変えようとしたためにSが考えていたやり方と違いがでてきてしまったようでした。どうやら私の責任ではなさそうだということがわかって少しホッとしました。結局、この場は監督がSの意見を取り入れて、新たな撮影方法を提案し、それで落ち着いたようでした。このようにして映画がより良くなっていくのでしょうが、それゆえに映画の撮影は遅れがちになるのだと思いました。

 午前中に予定されていたシーンの撮影は、午後にまで及びましたが、午後の撮影はかなり順調に進みました。この日の撮影はどうにか予定通りに終ったので、帰りにはOさんの中国語指導の人も交えて食事をすることになりました。この日は普通の中華料理を食べましたが、中国語指導の人が火鍋を食べたことがないとのことだったので、次回は火鍋を一緒に食べることになりました。Sは、中国に来て火鍋を食べないのは本当に残念なのでぜひ食べようと言いました。


5/13 日本語の台詞がないときは

 今日も朝から撮影があるので、7時50分にはSのホテルへ行きました。今日は日本語の台詞がないので、行きの車の中でもかなり気楽でした。中国語の台詞はあまり多くなく、すでに暗記しているからだと思いますが、Sは車の中で台本を開きませんでした。

 撮影現場についてから、ゆっくりと準備をし、リハーサルには余裕をもって臨んでいました。日本語の台詞があるときは、直前まで発音のチェックをするので、なかなか彼の傍らを離れることができないのですが、この日は通訳のために彼の傍らについていてもほとんどその必要を感じませんでした。

 演技の打ち合わせの時は、専門の通訳がいるので、私の出番はないですが、他の時は、日本人スタッフからいろいろと声をかけられると私がちょっとした通訳をする必要があります。しかし、この日は当然なのかもしれませんが、演技や台詞にまったく問題がなく、他の日本人スタッフからかけられる声は、”OK”や”Good”といった言葉でSも分かる言葉でした。ちなみに日本人スタッフは直接Sとコミュニケーションがしたい時には、簡単な英語で話しかけることが大半です。そして、Sもそれに対して簡単な英語で答えています。

 一番印象的だったのは、監督がモニターチェックを終わった後、Sに何回も

 「カッコイイねぇ〜」

と言ったことです。役者を褒めて、その気にさせるといった意味もあったのかもしれませんが、この日は非常に余裕をもって、堂々と演技をしていて、ひいき目なのかもしれませんが、私にもかなり格好よく映りました。この日の撮影にはOさんがいなかったのですが、撮影はSを中心に進められ、Sが一番かっこよく見えました。


5/14 エッグタルトが好き

 昨日はたくさん撮影したので、終ったのは結局23時頃で、部屋に戻ったのは24時過ぎでした。それでも今日は8時までにSのホテルへ行かなければなりませんでした。更に今日は比較的長い日本語の台詞がありました。日本語で台詞のやり取りをするので、私も相手役の台詞をおおよそ覚えておく必要がありました。6時半には起床し、出発の準備を整えてから、少し台詞の復習をしておきました。案の定、Sは現場に向かう車の中で台詞の復習を始めたので、私の努力は無駄になりませんでした。

 前日に十分なレッスンをしていなかったので、この日の日本語台詞はまだ完全ではありませんでした。そこで撮影の合間を縫って台詞の練習をしました。Sは、例によってお昼をほとんど食べませんから、私は急いで食べて早く日本語のレッスンを再開しようと思いました。しかし、Sはこの日の撮影が長くなることをすでに予期していたのか私にゆっくり食べてゆっくり休んでと言いました。そして、自分も普段は、ほとんど口にしない甘いものを食べ始めました。それは、Oさんがスタッフ全員に差し入れたエッグタルトでした。普段から甘いものを食べないので、私が不思議そうにSの方を見ていたら、彼は

 「これは、すごく好きなんだ! 」

と言いました。

 今日は本番の時、はじめて日本語の台詞を言い間違えましたが、ほぼ順調に日本語の台詞を言うことができました。しかし、この日は日本語の台詞に不安があったので、Sのそばをほとんど離れることができず、更に撮影が非常に狭いところで行われたので、彼が撮影をしているときも座ることがほとんどできませんでした。つまり、食事の時以外、朝から晩まで立ちっぱなしでした。撮影が終盤に差し掛かった頃には、足が非常にだるくなっており、無意識のうちに撮影現場に落ちていた木片で青竹踏みみたいなことをしていました。そうしたら、ベテランスタッフらしい人から

 「疲れるよね」

と同情的に言われました。自分の無意識の動作が少し恥ずかしかったからか、おもわず

 「疲れませんか? 」

と聞き返えしてしまいました。返答は

 「慣れました」

でした。年間200日以上現場に入っているので、こんなことはよくあることだと淡々と語っておられました。とりあえず、自分の軟弱さは傍らにおいておき、労働基準法なんかとは無縁らしい業界で本当によく働いているそのベテランスタッフを少し尊敬してしまいました。


5/15 Oと相互学習(2)

 昨日の撮影終了前は、2日連続24時以降の帰宅が確定していたにもかかわらず、今日も朝から撮影がありそうだという情報が入ってきており、心の中で

「勘弁してくれ!」

と叫んでいました。結局、帰り際にSは午後から撮影だということを聞き、本当に安心しました。同時に他の日本人スタッフの皆さんは本当に

「幸苦了! (ご苦労様!)」

だと思いました。

 午後からの撮影でしたが、この日も日本語の台詞が少なからずあったので、私は11時にSのホテルへ行き、少しだけですが、日本語のレッスンをしました。台詞の暗記はすでに問題なく、発音にもほとんど問題がなかったので、ごく簡単に復習をしました。撮影現場までの車の中でもあまり練習をしませんでした。

 この日の日本語台詞に自信があったのかSはOさんに日本語の台詞を積極的に話しかけました。するとOさんが以前よりSの日本語がよくなっていることを感じたからか微妙な違いを直そうとしました。するとSは、急に不安になったらしくその場でOさんに直してくれるように頼みました。Oさんは、Sの頼みを快く聞いてくれました。Oさんは、Sに役者の言い回しについて微妙なところまでアドバイスしてくれました。しかし、その場には通訳の人がおらず、私が訳したのでアドバイスは十分に訳しきれず、また、改善は見られるもののやはりすぐにはOさんの台詞と同じようにはいかないからか次のような会話が始まりました。

 O :「やっぱり時間が限られているから、台詞を完璧にするのはちょっと難しいよね。」
 S :「でも、できるだけ日本人と同じように話したいんだ。」
 O :「ネイティブの発音にこだわるよりも役者なんだから他のところで表現できるんじゃない。」
 S :「……」
 O :「一緒にやっていて君が演じようとしている関(役名)は伝わっているよ。だから、(観客にも)伝わると思うし、少しぐらい発音が違ってもそれで結構味が出たりするからね。」
 S :「中国語の台詞で関をやってみるから、それをもう一度日本語の台詞で言ってみて。」(演技を交えて、中国語の台詞を言う)
 O :「あぁ、わかった。」(演技を交えて、日本語の台詞を言う)
 S :「OK。OK。役者なら、日本語ではどこでどのくらい止めてるのか知りたかった。これは台詞でとても重要だ。」(直訳)
 私 :「なんかたぶん日本語で言えば、”間”が大事だって言っているみたいです。」
 O :「あー、間はすごく大事だね。」

(中略、Sが好きな日本語映画などについて語る。これについては5/23 インタビューを見てください。)

 O :「ハリウッドなんかは台詞がすごく少ないんだよね。始めから世界中の人が見ることを考えて作っているから台詞が少ないんだよ。(だから自分も)台詞以外のところで表現することに力を入れている。この本は台詞が少なくないけどね…。」
 S :「できるだけ頑張る。」
(その後、再びOさんに台詞のレッスンをしてもらった。)

 思いかけず、2人の映画論をちょっとだけ覗かせてもらったような気がしました。誤解を恐れず、あえて解釈すれば、世界を意識しているOさんとこの作品では日本を強く意識しているSでしょうか。役者の表現は、台詞と演技のどちらにウェートをおくのかが論点の1つになっているようですが、この見解の相違は、それぞれが今回与えられた役柄から生まれたような気がします。Oさんは、中国語だけでなく、韓国語やドイツ語を話す場面があり、短期間でこれマスターするのは不可能ですし、Sは、台詞の半分以上が日本語です。私のくだらない解釈はさておき、2人がそれぞれこの作品をよくするために相互学習などをしながら、頑張っているのは明らかです。本当に完成が今から楽しみな作品です! 


5/18 馬に乗る

 15日の撮影を終えてから今日の19時までは本当にゆっくりと時間が流れたようでした。前日に少し日本語の復習をしただけでしたから、ほぼ3日間仕事をしなかったようなものです。この機会に上海観光でもすればよかったのですが、Sには基本的に午後はホテルにいると言ってあったのでそれもままなりませんでした。この時ばかりは携帯電話があれば便利だなぁと思いました。

 こんなに長い時間をどうやってホテルの中で過ごしたのかといえば、実はこの日誌をホームページ化し始めたのがこの時でした。カップラーメンとポテトチップスとジュースを買い込み、日本語を教えに行った時以外は、ずっと部屋にこもってホームページを作っていました。

 19時から出発の準備を始め、19時半にはホテルを出て、Sのホテルへと向かいました。Sのホテルを出たのは20時過ぎでした。Sの撮影は22時からなので、時間は十分なはずでした。私達の車は、いつものようにハイウェイをとおり、上海郊外の撮影現場へ向かいました。ところが今日は交通事故が起こったらしく私達の前には大渋滞が広がっていました。徐行しながら、渋滞の最後尾に近づきつつあった車は、急に逆走を始めました。運転手の”暴挙”に私は絶句しましたが、私以外は落ち着いていました。車は緊急車両通行帯と思われる場所をクラクションを鳴らしながらゆっくりと数百メートル走りました。その後、ハイウェイを降りる道を見つけ、そこから一般道へと入りました。そして、運転手は時間までにきちんと撮影現場にSを送り届けたのでした。

 21時半には撮影現場に着いたので、急げば22時の撮影にも十分間に合いそうでした。しかし、着いてすぐに急がなくてもよいことがわかりました。撮影が遅れていたからです。仕方がないので、Sは撮影の進行状況を見に行きました。大勢のエキストラを使って撮影をしていたので、1シーンを撮るのに非常に時間がかかるようでした。監督の指示を受けた助監督、助監督の指示を受けた通訳はせわしなく動いていましたが、指示を待つエキストラの方は非常にのんびりとしていました。そんなエキストラの中に騎馬警官がいました。Sは騎馬警官に話しかけ、馬を借り受けました。そして、颯爽と馬にまたがってしまいました。十数メートル走らせ、それから馬首を返すということを何度か繰り返しました。素人目ですが、手綱さばきは様になっていました。あとでどうして馬に乗れるのか訊ねたら、

「(馬に乗らなければならない)映画に出演したことがあるから。」

と言いました。更に続けて

「片手に銃を持って、手綱をさばくことだってしたし、撮影には本物の銃を使った。」

とも言いました。

 結局、Sが撮影に入ったのは23時過ぎでした。今日の撮影には、日本語の台詞がありましたが、発音はほぼ完璧に仕上がっていました。日本語の台詞に余裕があったからか、Sは演技の仕方を何通りか準備していると私に言いました。いくつかの演技はちょっと意表をつくようなものでした。それぞれの演技について彼から理由を聞くとどれも筋が通っており、自分が演ずる人物に深みを与えるのと同時に映画にちょっとしたスパイスを加えようとしていることがわかりました。

 しかし、Sの意表をついた演技は監督に採用してもらえませんでした。一番大きな原因は、Sの意図が上手く監督に伝わなかったからだと思いました。彼がどうしてこのような演技をするのかは、Sのストーリーと役柄への解釈をじっくりと聞かなければわからないと思いました。しかし、これを撮影現場ですべて訳すのは無理なようでした。また、もしかしたら監督とSの解釈には大きな隔たりがあったのかもしれません。最後は結局監督の指示通りの演技をし、一発でOKを出してもらいました。

 撮影が終る頃には、助監督の「準備(用意)、開始(スタート)」の掛け声はかれ果てていました。どうにか撮影を終えたのは深夜の3時過ぎでした。撮影が終ったSはすぐに帰路に着きました。他のスタッフが機材の片付け始めるのを見ながらも私がSと伴に撮影現場を後にしたのは言うまでもありません。皆さん本当に「お疲れ様」でした。


5/19 ラッシュ(2)

 撮影は午後からだったので、現場には13時に着きました。いつものように撮影は遅れていたので、到着してから遅い昼食をゆっくりとりました。昼食後も3時間近く待ち時間がありましたが、待ち時間は短く感じました。

 まず、プロデューサーがやって来て、しばらく雑談をしていきました。話題は多岐にわたりましたが、Sが

「中国と日本を舞台にした面白いコメディーがあるんだけど、どうですか? 」

とプロデューサーに言ったのにはちょっとびっくりさせられました。Sは更に

「監督としても、役者としてもやってみたい作品だ。」

とも言いました。プロデューサーもあらすじやキャストを聞き返したりしたので、この話題でかなり盛り上がりました。

 プロデューサーが去ると機会をうかがっていたのかすぐに雑誌の記者らしき人がインタビューにやってきました。

 まず、記者はSに名刺を渡しました。Sは名刺を一瞥するとそれを付き人に渡し、取材を受け始めました。私は何気なく、取材を聞いていましたが、記者がSにOのかつての作品や演技についてどう思うかということを訊いて来た時には、思わず注意深く聞いてしまいました。私の中国語能力が十分でないことをご理解いただきたいのですが、記者はなんとなくSとOの演技はどちらが上なのかをSの口から言わせようとしているような感じがしました。それに対してSがどう答えたのかと言えば、相手にせず、うまくかわしてしまったのは言うまでもありません。

 そうこうしているうちに撮影時間になりました。撮影は1時間ほどで終わりました。19時から別の場所でラッシュを見ることになっていましたが、時間は十分にありました。私達はゆっくりと軽い夕食をとってから、ラッシュが行なわれる試写室へと行きました。

 ラッシュは、時間通りに始まり、冒頭からSが出ていました。今回のラッシュではSがかなり映っており、日本語の台詞もかなりうまく言っていました。Sはラッシュを見終わってから、会心の笑顔をしていました。Sは私に今日は食べて飲もうと言いました。

 私達はまず食事をとることになりました。Sは「丁香飯店」という店に連れて行ってくれ、そこに個室をとりました。ゆっくりとおいしい料理を食べた後、今度は高級そうなカラオケ店に連れて行ってくれました。部屋に入るとすでにSの友達らしき人が数人待っていました。低いテーブルにはフルーツの盛り合わせとワイングラスがありました。私はSに勧められるまま柔らかいソファーに腰をおろし、ワインを何杯か空けました。Sの友達は次々と歌を歌いましたが、私には次第に歌声が聞こえなくなってきました。急に疲れが出たのか強烈な睡魔に襲われました。私はSの付き人に付き添われて店を出て、タクシーに乗せてもらいました。ホテルに着くと、自分の部屋に戻り、そのままベットに横になったようです。起きたのは翌日の午後でした。


5/22 ご機嫌ななめ

 朝からSの機嫌が悪くなりました。この日Sは7時半にホテルを出て、撮影現場には8時20分頃に到着しました。しかし、現場には、準備のために来た中国人スタッフしかいませんでした。10分ほどして日本人の準備のスタッフも来ましたが、主だった俳優はまだ現場に来ていませんでした。Sは朝食もあまり食べずに車の中で不機嫌そうにしていたので、私は車から少し離れたところに腰をおろし、様子を見ていました。

 Sの付き人がいろいろと話を聞いてきたところでは、時間を管理する日本人の担当がメイクや衣装換えの時間として、ほぼ一律に1時間を計算していたことが原因だとわかりました。Sのメイクと衣装換えは10分もあれば終ります。また、普通の俳優は、メイク車でそれらをするのでいくらか待ち時間があるのですが、Sは大体個室が準備されていて、メイクさんの方が部屋に来ることが多いので待ち時間がほとんどありませんでした。更に重ねてSには腕のいい運転手がついていたので、日本人準備スタッフとほぼ同じ時間に出発し、ほぼ同じ距離を走ってきたはずなのに10分も早く現場についていたこともわかりました。

 他人事のように他のスタッフの失敗を見ていた私ですが、3つの失敗を次々にしてしまいました。

 1つめは、翻訳でした。OさんとSが一緒に演技をするシーンでOさんのアップを撮ることになりました。Oさんのアップなので、Sは助監督から休んでいいと言われました。はじめSは監督の横に座り、テスト撮影されているモニターを見ていたのですが、突然自分も演技に参加していいか訊ねました。私がその旨監督に伝え、了承をえるとSはカメラには映っていないのにOさんの横で演技をしていました。私は彼の意図がわからなかったので、頭の片隅でずっと考えていました。Sの意図は、本番撮影が終わり、モニターチェックも終った時にわかりました。Sが

「空きがうまって、前よりよくなった。」

と言ったからです。Sはそれだけ言うとゆっくりとその場を離れました。私はなんとなくSの意図がわかったので、Sが言った先程の言葉をそのままOさんに伝えました。しかし、Oさんは伝えられたSの言葉が何を言っているのかよく分からないようでした。私はOさんもモニターをチェックしていたのだから、当然Sがやった意図をわかっているのだと思い込んでいました。Oさんは気になったようで詳しく解説するよう私に言いました。私はしどろもどろになりながらも

前のシーンを考えれば、Oさんのアップの横にはSがいなければならないこと。
Oさんのアップシーンの時に画面に大きな空きがあるのは綺麗ではないらしいこと。
Sが演技したことにより、画面の大きな空きが時々埋まり、且つシーンの連続性を考えればより自然になったこと。
を伝えました。しかし、私は動揺していたのでOさんにはあまりうまく伝わなかったかもしれません。Oさんはおおよその意味がわかったからかゆっくりとその場を去りました。Oさんが去った後にOさんの付き人らしき人から

「よく分からないなら、余計なことを言うな!」

とお叱りを受けました。結果的にOさんに混乱を与えるようなことを言った私は付き人のおっしゃるとおりでした。しかし、一方でSからは、

「自分の言ったことは、わからない時でもできるだけ忠実に日本語に訳せ! 映画がわかる人には伝わるから。」

と言われていました。Sが私にこういったのは、私が映画の専門知識を持ち合わせていないから、機械的に翻訳しろという意味でしょう。しかし、今のケースはそれゆえに失敗しました。反省しても原因は自分の勉強不足ですから、すぐには解決できそうになく、落ち込みました。この失敗からの唯一の教訓は、話しかけるタイミングも重要だということぐらいでしょう。Oさんはモニターチェックをする時にどうしてSが演技に参加したかを考えていたのではなく、自分の演技はどうであったのかを主にチェックしていたのでしょう。Oさんの付き人も付き人なりにOさんの演技を見ていたのだと思います。これは私がモニターチェックの時に主にSの演技だけ見ているのと同じです。Oさんが自分の演技をチェックしている時にSの演技について急に話しかけるのはやはり適当ではなかったのでしょう。

 2つめは、ラジオを借り忘れたことです。ちなみにここでいうラジオとはマイクを通した役者の声をチェックするために使う機械のことです。私は1つめの失敗で落ち込んでいましたが、すぐにまたSの傍らへと行き、日本語指導と通訳を続けました。次のシーンは日本語の台詞がありましたが、すでに発音はほぼ完璧になっていました。段取りはごく簡単済ませ、テスト撮影に入り、すぐに本番へと進んでいきました。本番の掛け声がかかった時に私はラジオがないことに気がつきました。いつもは録音部の人がSにマイクを付けに来る時に借りていました。しかし、今日に限ってSにマイクを付けにはきませんでした。テスト撮影の時に気づくべきでしたが、落ち込んでいた私はすっかり忘れていました。かくしてこの日の日本語台詞はマイクを通した音声をチェックしないままに終ってしまいました。

 悪い時には、悪いことが重なるものです。3つめのミスはカメラの前に立ってしまったことです。先程のカットが撮り終わり、カメラの位置が変わったのにも気づかず私は呆然とふらふらしていました。するとカメラマンから

「カメラの前に立っちゃダメだって、何度も言っているでしょう! 」

と言われてしまいました。いつもはすごく注意しているので、カメラの前に立ってしまったのは、始めてだったのですが、このように言われてしまってもただただ全面的に受け入れてしまいました。

 この日は私にとって最悪の一日でした。


5/23 インタビュー

 11時に撮影をはじめ、12時には終りました。撮影には、日本語の台詞もありましたがまったく問題ありませんでした。

 12時から記者会見が予定されており、その会場には記者が大勢待っていました。監督に続いて、OとSが一緒に会場に入りました。この様子は、すでに報道されたので、私が再び書くことはあまりありません。強いて書けば、Sが日本語台詞の一部を記者会見のときにしゃべったことです。日本語指導の私にとって非常にうれしいことでした。Sがある程度日本語の台詞に自信を持つようになったからこそ言えたのだと思ったからです。

 記者会見が終ってからもいくつかのメディアが個別取材を申し込んできました。マネージャーは時間調整にてんてこ舞いでした。日本のメディアは、東映の宣伝部を通して、きちんと取材を申し込むのですが、中国のメディアは直接マネージャーに交渉してきますし、中にはゲリラ的なメディアもあり、直接Sに交渉して、短時間ながらも取材していくからです。結局、行儀のよい日本のメディアは取材時間が少し短くなったようでした。

 取材はSの控え室で行なわれたのですが、中国のテレビなどが取材している最中にも、ゲリラ的メディアが部屋に入ろうとするので、私が部屋の外で門番をすることになりました。私が門番をするようになるとゲリラ的メディアは来なくなりました。

 一番最後に東映の宣伝部の人と一緒に日本のある雑誌社の方々がやってきました。記者の方はある程度中国語ができるようでしたが、あまり自信がないので私も取材に参加して欲しいと依頼してきました。どうやら、Sには専属通訳がついているとでも思っていたようで、それが私だと思ったようでした。まず、私は自分が日本語指導であって、通訳ではないことを相手に伝えました。そして、それでもよければお手伝いはすると言いました。彼女達に与えられた時間は少なかったので、妥協したのか私がお手伝いをすることになりました。

 取材が始まってみれば、私は結局実質的な通訳をしていました。主な取材内容は映画関係の雑誌を探してもらえば、見つけられると思うのでそちらに譲ります。1つだけ書いておきたいのは、Sが日本映画について話した部分です。彼は、映画監督では黒澤明と大島渚と北野武が好きだと言いました。特に北野武が好きで、監督作品はすべて買い揃えたし、出演した映画もほとんど買い揃えたそうです。記者が北野武のどういうところが好きなのか重ねて聞くと、ヤクザや裏社会といった意味の「黒社会」を扱った監督映画がかっこいいと言っていました。また、出演作品では学生が殺しあう映画の終盤で北野武が死ぬ場面があるそうなのですが、その死に方が非常に意表をつくもので彼は普通の人とは違うと言っていました。

 インタビューの最後に、それでは日本のファンに一言というのは、決まり文句なのでしょうが、これがSにはうまく伝わりませんでした。通訳が悪いこともあるでしょうが、Sはちょっと考えてから日本にはまだ僕のファンはいないんじゃないかと切り替えしてきました。記者はばつが悪そうに日本にはアジア映画のファンもたくさんいますから、その人達に一言と言いなおしました。するとSは、すぐに彼らに

「僕の以前の映画は決して見ないように!」

と言いました。私は意味がよく分からなかったのですが、すぐにそのまま訳してしまいました。記者の人もSの意図がわからずに呆然としてしまいました。私と記者が固まっているのをちょっと見てからSは、

「開玩笑! 開玩笑!」

と言いました。ちなみに開玩笑は冗談という意味です。情けない通訳ですが、Sに発言の意図を解釈してもらいました。彼曰く、

「以前の映画を見ないでというのは、それが悪いからではなく、今撮っている映画が一番良いものになりそうだからで、日本のファンにはまず自分の一番いい映画を見てもらいたいから」

とのことでした。更に続けて

「今撮っている映画ならきっと日本にもたくさんのファンができると思う」

と言いました。最後にSにからかわれ、しっかりと映画の宣伝までされてしまったのですから、記者の方々はまんまと一本とられたような形になりました。


5/24 Oさんのサイン獲得計画

 実は、日本人の友人や日本語学校の学生からOのサインをもらって欲しいと言われていました。日本人の友人からの依頼は、多すぎるので不可能だと思いましたが、日本語学校で1つのサインをもらうだけならどうにかなるのではないかと思い、ずっと機会を窺っていました。

 まず、情報収集からはじめました。聞くところによるとOさんはほとんどサインをしないとのことでした。私自身は見ていませんが、今回の撮影でこれまでサインしたのは、共演した中国人の子役だけだとのことでした。サインを始めるときりがなくなってしまうからで、一部の人だけもらうのは不公平になるからだとも聞きました。それから、注意点として本人でなければ基本的にサインしないとのことでした。

 以上のような情報を総合すると日本語学校で1つのサインをもらうという計画は、かなり危ういようでした。残されたチャンスは準備とタイミングだと思いました。準備はサインペンと色紙だけなので簡単そうですが、これが意外と苦労しました。サインペンはどういうわけか油性で少し太めのものがなかなか見つからなかったのです。大型スーパーの文具売り場にもなく、いくつかの百貨店にもなく、結局たまたま通りかかった小さな文具店で買うことができました。色紙もサインペンと一緒に探していたのですが、どうしても見つけることができませんでした。色紙は結局あきらめ、日本語学校から参考資料としてもってきたOさん主演のテレビドラマ『発達之路(お金がない)』のVCDパッケージに空白があるのでそこにサインしてもらうことにしました。

 私はいつもサインペンとVCDをDバックに忍ばせ、機会を待っていました。そして、今日はついにその機会が来たように思いました。OとSが一緒のシーンで、撮影の待ち時間がかなりあったからです。SもOさんも時間をもてあましながら、断続的に会話をしていました。しかし、私には通訳をするという仕事もありました。私が意を決して、Oさんに話しかけようと思うとSがOさんに話しかけ、私の意はくじかれてしまいました。気の小さい私は結局サインをもらうことができませんでした。


5/25 通訳は難しい(1)

 今日から映画の終盤へと続く非常に重要なシーンの撮影に入りました。連日の撮影で疲れているはずなのですが、心なしか日本人スタッフの士気は上がっているように感じました。一方、Sは日本語台詞の大半を撮り終えたからか、以前よりも日本語の台詞を練習しなくなってきました。そのため、私の仕事は自然と通訳に傾いてきました。

 この日からかなり注意して日本人スタッフが使っている言葉を収集し、空き時間に意味を確認するようにしました。例えば次のような言葉は、なんとなく意味を推測できましたが、

 マイクが死んでるから、生かして!(録音部)
 〜は流れちゃっているし、…は落ちちゃってるよ!(録音部)
 上のほう切れちゃっているよ。(撮影部)
 ルーズに撮るから。(撮影部)
 〜さん狙いだから、センター。(監督)
 叫んだって聞こえないから、シーバー持って行かせろ!(助監督)

 次のような言葉はすぐには分かりませんでした。

 OS!(録音部)
 カメラなめているから、〜(撮影部)
 まけよ、XX(助監督の名前)!(監督)
 抜けちゃっているから、早くどかして!(助監督)
 相手の台詞を食わなくてもいいんだけどね!(役者)

 私はこれらの言葉をまず日本語で理解してから、中国語に訳さなければなりませんでした。どうしても訳せないものは、中国人通訳に助けてもらったりしました。

 また今日の仕事を終える頃には、付き人の仕事もせざるをえないことが分かりました。なぜならこの重要なシーンの撮影は太陽の照りつける屋外でおこなわれており、付き人がSの代わりに立ち位置に立つため、Sの傍らを離れることが多くなったからです。付き人がSの傍らを離れるたびに私は付き人7つ道具とでも言うべきものを彼から託されました。7つ道具は下記の通りです。

  1. 喫煙セット(タバコ、ライター、携帯灰皿)
  2. 飲み物(無糖烏龍茶かミネラルウォーター)
  3. 日傘
  4. 扇子
  5. タオル
  6. 当日のスケジュール表
  7. 脚本

 付き人は非常に忍耐が要求される仕事で、日傘や飲み物を常に持っているにもかかわらず、自らは真っ黒に焼け、たびたびトイレに行くわけにも行きませんから飲み物も控えなければなりませんでした。私は付き人の仕事をちょっと手伝っただけでしたが、北京に帰る頃までにはすっかり小麦色になっていました。


5/26 やかんをプレゼント

 昨日から朝食は撮影現場でとるようになっていました。今日も「永和大王」の朝食セットらしきものが準備されていました。メニューは中華まん、小龍包などと豆乳を組み合わせたもので、私のお気に入りは甘い豆乳でした。朝食をあまりとらないSも豆乳だけはいくらか飲んでいました。

 今日は、Oの他に日本のかなり年配の役者さんと有名な役者さんが現場入りしていました。Sは、日本語台詞がなかったからか待ち時間はかなりリラックスしており、新たに加わった役者さんに積極的に話しかけていました。話はかなり盛り上がり、その日は初対面だったにもかかわらず、早速Sが夕食に誘いました。Sは賑やかなのが好きなのか幾人にも声をかけ、結局総勢15人で火鍋を食べることになりました。Sのたった1つの心残りは、Oさんはすでに別の予定があって一緒に食事ができないことでした。

 屋外撮影は通常日没で撮影が終わります。おかげでレストランに20時に15名でお願いしますと付き人が電話をするだけでセッティングは終りました。

 撮影は18時頃には終わり、各自は一度ホテルへと戻りました。20時に予約を入れた「来梅楼」という店で落ち合うことになっていました。Sは19時45分には店に着き、セッティングが整っていることを確認し、皆が集まるのを待っていました。私は皆迷わずに集まれるのかちょっと心配していたのですが、店が各自のホテルからあまり遠くないこともあってか20時5分ぐらいまでには全員が集まりました。

 皆が火鍋を心ゆくまで堪能したのは言うまでもありません。はじめて火鍋を食べる日本人が最も興味を持ったのは、鍋で煮込まれた大きな骨の髄をストローを使いながらすするように食べることでした。これを食べるためにストローと片手だけのビニールの手袋が各自に配られましたが、ほとんどの人がきょとんとしていました。Sが察して食べ方を実演すると何人かの人は非常に興味を持って食べ始めました。2、3人は髄の味が非常に気に入ったらしく1人で何本も食べていました。

 火鍋はテーブル上でもずっと火にかかっているので、中のスープが蒸発し少しずつ少なくなります。そこで、火鍋店では大きなやかんを持った店員が各自のテーブルを見ながらうろうろしています。私達が火鍋を食べながら楽しい時間を過ごしている時にも2、3度やかんを持った店員がやってきてスープを継ぎ足しました。店員の持っていたやかんは銅製で何となく趣のあるやかんでした。ある年配の俳優はSにこの銅のやかんは何処で買えるのか訊いてきました。Sは突然の質問にちょっと驚いているようでした。ちょっと考えてから、申し訳なさそうに分からないと答えました。その旨を年配の俳優に伝えると非常に残念がっていました。

 皆が満腹になり、そろそろお開きというときに東映の社員の方が勘定をしようとしました。その旨をSに伝えたところ彼はきっぱりと断り、付き人をすぐに勘定に走らせました。しかし、Sは何かを思い出したようにすぐに付き人の後を追いました。しばらくしてからSと付き人が戻ってきましたが、Sはちょっとニコニコしていました。しばらくしてから少し身なりの整った人が小さな銅製のやかんを持ってテーブルへやってきました。そして、Sは年配の俳優にそれをプレゼントすると言いました。年配の俳優が喜んだのは言うまでもありません。Sはこともなげに経営者に話をつけてきたと言いました。


5/27 通訳は難しい(2)

 再び通訳の難しさを痛感してしまいました。この頃はSから常に傍らにいて、自分の言いたいことをすぐに監督に伝えるようにと言われていました。しかし、私が常にSの傍らにいるために急いでいると監督や助監督が私を専門通訳の代わりに使うようになりました。この日は監督と助監督からちょっと違ったニュアンスの指示が出たり、私にも誤解があったようで少し混乱し、監督が何度かモニター前を離れて、直接Sに指示を出すような事態が発生してしまいました。こうなると撮影は遅れがちになります。現場の雰囲気が悪くなったことを察したSは監督に謝ると同時に指示が自分にうまく届いていなかったことを告げました。混乱の原因の1つが私にあったのは明らかでした。監督や助監督が急いでいるようでもできるだけ専門通訳が来るまで待ってもらったり、また私自身がSの傍らにいながらも常に専門通訳が何処にいるのか把握しておくべきでした。Sへの指示の伝達経路はできるだけ1本にするべきだったと思いました。

 また、監督の傍らで様子を見ていたOさんは、普段から時間があれば監督とコミュニケーションをして、お互いの考え方を確認しておくことが大事だとアドバイスしてくれました。できれば、夜に通訳を入れて”本読み”をやった方がいいかもしれないとも言いました。”本読み”については、私が映画の素人であることを了解しているOさんが、撮影前に監督と出演者で演出や演技についてあらかじめ相談しておくことだと解説してくれました。私は専門通訳を介してSが監督と意見交換をしておくことは撮影現場での時間の無駄を少なくできるよい提案だと思ったので、それをSに伝えたのですが、Sはあまり関心がないようでした。SはどうしてOさんの提案に関心を示さなかったのかが私は今でもよく分かりません。


5/28 7時間待つ

 Sは昨日皆に迷惑をかけてしまったと感じたようで何やら今日は張り切って予定よりも15分早く現場入りしました。当然、撮影の準備はまだできていませんでしたが、監督はすでに現場入りしていたのでその横に座り、監督にいろいろと話しかけました。

 しばらくすると撮影が始まりましたが、Sのカットはすぐに撮り終わってしまいました。次の撮影まではしばらくある旨を伝えられるとSはクーラーのきいたバスの中で次の撮影まで待つことにしました。しかし、その後の撮影が延びに延びて結局7時間待つことになるとは思ってもいませんでした。お昼に弁当を運んできたスタッフは、申し訳なさそうに午後もすぐには出番がないことを伝えました。Sは昼食を少しだけ食べました。その後はバスの座席を少し倒し、横になってしまいました。私もやることがないのでSにならって横になりました。私がSの付き人に起こされたのは15時頃でした。Sはすでにバスを降りようとしており、私も急いで後に続きました。その後の撮影はいたって順調でしたが、今日の事態が伏線となって、明日は日本語指導失格ともいえるカンペを使う事態にまで発展してしまうとは、この時はまったく予期していませんでした。


5/29 カンペを使う

 カンペを使ったのはシーン141のカット40でした。どうしてこのような事態に至ったのかはのちに「Sの日本語指導について」という報告書にまとめました。主観が入ると正確でないので下記に報告書の該当箇所を引用します。

 このシーンが上手く言えなかったのは明らかに練習不足です。また、この時の問題は、Sの学習環境を整えなければならないという問題を提起したようにも思いました。いかにして練習不足になったのか下記に列挙します。

 悪い時には本当に悪いことが重なるものです。私にとっても最悪の展開ですが、それ以上にSにとって最悪だったと思います。撮影現場ではカンペを皆に見せたりして、明るく振舞っていましたが、それは恥ずかしさの裏返しだったようにも感じました。それは、カンペを使ったこのシーンがSの日本語とは別の問題で後日取り直しになった時、この日本語台詞の暗誦にこれまで以上のやる気をみせ、ほぼ完璧に暗誦したことからも感じ取れるような気がします。


6/1 武漢から戻ると…

 Sは30日と31日に仕事で武漢へ行っていました。東映との話はすでについているらしく予定通りだったようです。私は29日の帰り際に知らされました。

 急に予定が空いたのでどうしようか迷いましたが、30日は福州路の上海書城と上海外文書店に行きました。どちらも非常に大きな書店で、自然と何度も行ったことのある王府井の王府井新華書店と北京市外文書店を思い出しました。上海の書店の方が北京のそれより少し大きいようでした。そして何よりうれしかったのは、上海外文書店では日本語の外書をたくさん扱っていたことでした。値段は、輸送費等のため日本円の1.5倍相当になっていましたが、『imidas 2002』という事典を買いました。私の勤める日本語学校では、校長が日本へ出張した時や新任の先生の赴任時などに少しずつ日本の本を持ち帰り、学校の図書室の本を増やしていました。しかし、『imidas 2002』のような大きな事典は嫌われたのかなかなか持ってきてもらえませんでした。使用頻度が高そうなので思い切って買ってしまいました。その他は中国語ですが、日本語教育関係の本を40冊ほど買いました。これらの本はホテルに持ち帰るとすぐに小包にし、100元ぐらいの送料ですべて北京の学校へ送ってしまいました。

 31日は1日部屋でホームページを作っていました。夕方になると日本人スタッフからカンペを使った日本語台詞の大半が中国語に変更されたことが伝えられました。夜はSと日本語台詞の復習をすることになっていましたが、結局それをする必要はなくなってしまいました。

 1日の朝、Sは私に会うと変更になった日本語台詞をそれなりの発音で暗誦してみせました。私の気のせいかもしれませんが、Sは少し残念そうでした。この日の撮影は非常に順調でした。


6/2 上海ロケを終える

 午前中の撮影を終え、Sと一緒に食事をとっているとプロデューサーがSに挨拶をし、いつものように何やら事務的なことを話していました。プロデューサーはいつも専属通訳を連れているので、私は通訳をする必要はありませんでした。いつもならそのまますぐに他の場所へ行くのですが、今日に限って私に話しかけてきました。プロデューサーは私に

「順調に行けば、今日で撮影が終わりそうなんだけど、明日帰る? 」

と訊いてきました。実は私とプロデューサーが交わした契約は5月末までだったのですが、撮影が延びていたので口頭で4日までならいられる旨を伝えてありました。そこで私は撮影が終わり、帰りの飛行機の切符を買っていただけるなら、明日でもかまわないと言いました。一方で私はまだいくつかのシーンを残しているので本当に今日終りになるのか半信半疑でした。

 どういったわけか午後からの撮影はすさまじい急ピッチで進められました。なんと2つのシーンの準備を同時に進めるということまでしていました。その甲斐もあったのか本当に日没までに撮影が終わってしまいました。

 撮影が終わると上海ロケに参加したスタッフの記念撮影になりました。私もカメラを持っていたのでスタッフの写真を取りましたが、皆見事に真っ黒に日焼けしていました。こうして、私の仕事の大半も記念撮影と伴に終了しました。


6/3 北京へ

 私が最後にした仕事は「Sの日本語指導について」という報告書を書き上げ、プロデューサーに渡すことでした。6月4日に帰るつもりだったので、報告書は章立てを台本の空欄にメモした程度でした。しかし、この日のうちに渡さなければ、機会を逸してしまいそうだったので、6月2日の夜から徹夜で書き始めました。この日の9時15分にプロデューサーに会うことになっていました。ですから、それまでには何としても書き上げるつもりでした。しかし、途中でわずかばかり寝てしまったので、9時15分までに報告書は書き終わりませんでした。仕方がないので、とりあえずプロデューサーとの約束の場所に出向き、飛行機の切符をもらってきました。プロデューサーに今報告書を書いている旨伝えたら、ぜひ書いてくださいとのことだったので、部屋に戻って張り切って書き続けました。もらった北京行きの飛行機は13時5分発でした。時間は2時間ほどしか残されていませんでしたが、どうにか書き上げました。報告書はスタッフルームに伝言と伴に置き、急いでホテルをチェックアウトしました。

 11時40分頃にホテルを出て、タクシーに乗って飛行場に行き、駆け回ってどうにか飛行機には間に合いました。飛行機が離陸してからしばらくすると疲れのために寝入ってしまいました。起きた時にはすでに北京到着間際でした。眠気眼で北京空港に降り立った時、私は上海での出来事がすべて夢だったような気がしてしまいました。