森田ゼミ96年黒旗福助トップ

hukusuke  福助5号  
発行所 :Y.H.アカデミー
パトロン:森田ゼミナール様

川嶋さんの『日本の古典文学について』を読んで感じたこと  コメント:山路博之

 本を読む人は美しくなる、などという妙な教訓みたいなものがる。しかし私はそんなものは信じない。何故なら、本や、活字に親しんだだけで内面の美しさが顔や目ににじみ出したり、魅力的になったりする位なら、世の中、苦労はないからだ。まず活字業界かジャーナリスト産業の宣伝といえるだろう。

 世に古典というものがある。物としてそれが存在することは、疑いもない事実である。「古典が現代に生きている」と主張する人々がいる。彼らはその証拠として、「書店の奥のほうの棚をのぞけば、人類の古き良き遺産がぎっしりとひしめいているし、図書館や、教科書の中にも古典は充満している」という根拠を持ち出す。果たして本当にそうなのか。

 世の中にはいろいろな趣味が転がっている。音楽を聞いたり、スポーツをしたり、切手やコインの収集等々さまざまな趣味が転がっている。

 だが、妙に読書ということに関してだけ、ほかの趣味より一段高尚なものに受け取られている感じがしないでもない。

 生け花や、茶道や、ピアノ、バレー、フィギュア・スケート、そして古典の講座、どれも同じように人類の文化遺産への伝承と関わりあっているものばかりだ。人間の、人間らしい生活とは、いわゆる文化人がしばしば読書週間などにおっしゃるように、本を読むことで向上したり、立派になったりするものなのか。そうではないはずだ。

 読みたい人が読めばいいのだ。そして同じ本好きの仲間と、他人の迷惑にならないように本について熱心に語り合えばいい。それはおそらく人生の最も良き楽しみの一つだろう。しかし、ゴルフ好きの人達が、熱心にゴルフの話をしていることと、本についての会話とは、その間に高低の差などはない。片方は精神の楽しみ、片方は肉体とそれにともなうメンタルな楽しみを同好の士とわかちあっているだけのことではないのか。皆さんはどう思いますか。

〈引用文献〉
・五木寛之 「偏見と散漫」(『読書と私』文春文庫より一部引用)