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 福助20号 
発行所 :Y.H.アカデミー
パトロン:森田ゼミナール様

自由か平等か〜幸福を解釈する二元論〜  山路博之

 断っておくが、これから述べることが絶対ではない。「そんなこと言われなくてもわかっている」と思うのだが、どうもこのような断り書きをしておかないと不安になられる「御方」がいるらしい。だが、ここでその「御方」を詮索する気はまったくない。何故なら、これから述べるテーマの本質とはまったく関係ないからだ。

 人間なら誰しも、「幸せな人生を送りたい」と考えるものである。では、幸せな人生とはどういうものか。「幸せとはこういうものである」と、定義づけることはできない。何故なら、人によって「幸せである」と感じる場面が異なるからだ。同様に、幸福を得る手段も人によって違うものである。その点を踏まえた上で、私の述べる「人間の幸福論」について耳を傾けてもらいたい。

 人間(ヒューマン・ビーイング)とはどういう生き物であろうか。人間とは、他人と何らかの関わりをもちながら社会を構成し、なにほどかの寄与が期待されている人のことである。これとは逆に、他人と関わりを絶ち、社会の中に生息する「人間」もいる。厳密に述べれば、こういう「人間」はヒト(ホモ・サピエンス)というふうに文化人類学上は区別できる。誤解しないでほしいのは、ヒトが悪くて人間が良いと言っているわけではない。あくまでも、文化人類学的に現在の人類を区別すると上述のようになるわけである。尚、現在の人類においては圧倒的に前者のヒューマン・ビーイングのタイプが多い事は容易に想像ができよう。

 さて前段落で述べているように、人間とは「社会を構成する一員として活動する生き物である」ということはわかった。では、我々人間が住んでいる社会とはどういうものであろうか。文明国における社会に限定して考えれば、二つの社会に大きく分けられると思う。

一つは、民主主義・自由主義(資本経済)社会である。もう一つは、社会主義・共産主義(計画経済)社会である。このような視点から二つの社会に分けた背景としては、「私有財産制」と「共有財産制」による思想(イデオロギー)の違いがあげられる。つまり、前者は私有財産制の追求によって形成された社会であり、一方の後者は共有財産制の追求によって形成された社会といえる。いずれにしろ、両者の社会を根底から支えているイデオロギーとして、私有財産制と共有財産制が鍵を握っていることは疑いのない事実である。

 この両者のイデオロギーを別の言葉に言い換えると、「自由」と「平等」に置き換えられないだろうか。つまり、私有財産制を追求していく社会においては自由な環境が保障されていることが前提となる。同様に、共有財産制を追求していく社会においては平等な環境が保障されていることが前提となってくる。果たしてその辺はどうなのであろうか。以下でこの仮説(私有財産制の追求には自由が不可欠であり、共有財産制の追求には平等が不可欠である)の是非について検証していきたい。

 たしかに、自由さえあれば、私有財産制が権利として保障されるわけではない。当然その社会の政治形態等の他の要素も重要となってくる。もちろん共有財産制の社会においても同様である。しかし、その社会を根底から支えるイデオロギーを維持していく上では、私有財産制においては自由が、共有財産制においては平等が一番大切になってくる。さらに、各イデオロギーを純粋に押し進めようとした時には、ますます自由と平等が各社会においては重要な概念になってくる。だか、この説明だけから仮説を実証していくのには少々無理がある。そこで、あらたなる考察の視点(メガネ)を設けることにする。それは、各社会において自由と平等の両方の概念の共存が可能かどうかである。つまり、私有財産制の社会の中で自由と平等による両概念の共存は可能なのだろうか。同様に、共有財産制において自由と平等による両概念の共存は可能なのであろうか。

 一般に、我々の暮らす社会においては「自由と平等を目指した国づくり」をスローガンに掲げている国家が多い。だが、そのスローガンを実現している社会がどれだけ存在するのであろうか。少なくとも、ある国の特定地域においては、そのスローガンを実現している場所があるかもしれない。それは、スイスの一地域である。それ以外の国や地域の中で、このスローガンを実現している地域を私は知らない。仮に、アメリカを例にとって考えてみよう。アメリカは「自由の国」と呼ばれている。しかし、アメリカでは一部の自由をはき違えた連中による銃や麻薬の犯罪により、厳しい規制がしかれつつある。また、WASPを頂点とする社会においては、貧富の差が大変激しく、平等な教育や福祉の享受がなされていないのが現状である。このような例から、「虻蜂取らず」のような諺を連想するのは私だけであろうか。もしそうでなければ、このことは一つの地域社会では二つ以上の概念から幸福を求めることは無理であることを示唆しているのではないだろうか。

 以上から、「一つの社会の中では自由と平等という両概念の共存はありえない」という事実が判明した。この事実と、前述の内容(各イデオロギーを純粋に押し進めると、自由と平等という概念が各社会に占める比重は大きくなる)から、仮説に対する判定が出る。つまり、「私有財産制の追求には自由が不可欠であり、共有財産制の追求には平等が不可欠である」とする、私の仮説は見事に証明されたといえる。だが、新たな疑問が浮上してくる。それは、「私有財産制を追求する社会の中に共有財産制を掲げる地域社会の形成は可能であろうか」という疑問である。この疑問については、前述した「一つの社会の中に自由と平等という両概念は成立しない」という事実から、当然、既成社会の中に別のイデオロギーが存在する余地などないように思える。その具体的な例として、日本のオウム事件があげられる。

 オウム真理教が目指した社会を一言で言えば、「共有財産制の社会」である。その共有財産制の社会を、私有財産制というイデオロギーで支配されている既成社会の中に作ろうとしたわけである。結果は失敗であった。この一例から、疑問に対する解答として「私有財産制社会の中に共有財産制のコミュニティを形成することは不可能」ということがあげられる。しかしながら、オウムのような活動が後をたたないのも事実である。最近では、ヤマギシズムという集団の存在が、ポストオウムとしてささやかれている。

 前述した事実(一つの社会の中では自由と平等という両概念の共存はありえない)が示すように、このような集団がいくら発生しても現状の認識では淘汰されるのがおちである。では、現状の認識とはどういうものであろうか。現状の認識とは、「私有財産制の方法でしか幸福は得られないという考え方」である。「本当にこんな認識を我々はしているのであろうか」と疑問に思われる方もいるだろう。普段の生活においては、このような考え方はまったく意識していない。しかし、オウムという我々が共有するイデオロギーとは異なる思想が社会に登場した時、始めて我々の中に眠っていた潜在意識が「拒否反応」という形で表面に出てくるわけである。つまり、ある日突然自分の町に、共有財産制を主張する社会思想家の集団が出現した状態を想像してもらいたい。当然、私有財産制に慣れ親しんでいる我々にとっては、そのような異質な集団の出現には戸惑いを隠せない。そして、異質な集団との摩擦(トラブル)が浮上しだすと、我々は彼らを排除、淘汰する行為にでてしまう。

 この行為は、「人間の幸福は私有財産制でしか達成できない」という認識の現れであり、他の異なるイデオロギーを受け付けない状態を示している。尚、断っておくがオウムやヤマギシズムの集団の擁護をしているわけではない。ただ、「幸福な人生を送るにはどうしたらよいのか」という本質を解釈していく上で、私有財産制という一側面だけを考えるのはあまりにも危険であるといいたい。つまり、「幸福とはいかにあるべきか」という本質を解釈するのに、二つの対立する観点から考察しましょうと提案しているわけである。ここで述べる二つの観点とは、もちろん自由と平等の概念を指している。

 おそらく近い将来、社会(文明国における)はすべて私有財産制を根底にもつコミュニティになるであろう。その後、各地で私有財産制を否定する運動が起こることが予想される。運動を起こす対象者は、私有財産制社会では暮らせない人達である。そういう人達を“異質な変わり者達”として淘汰することはいいのであろうか。

 淘汰しないまでも、例えばオウムに残っている信者を「社会復帰」させようとする動きがある。だが、この動きは間違っている。何故なら、私有財産制社会に復帰させてやる行為事態がそもそも間違っているからだ。少なくとも、オウムの信者は私有財産制を否定して違う社会を形成しようとしたわけである。ならば、本当の意味での社会復帰は、私有財産制社会ではなく、他のコミュニティに移すかあるいはそういう社会を形成してやるべきであろう。それが、オウム信者の真の社会復帰ではないだろうか。それなのに、オウム信者が元の私有財産制社会で暮らせる行為を「社会復帰が出来た」と解釈しているむきがある。これは、「理由も聞かずに嫌がる子供に無理やり勉強させる両親」と同じ構造である。つまり、「何故彼らがオウムの信者になることを選んだのか」という本質に目をむけない以上、我々はいつまでたっても、私有財産制の社会を否定して異質社会構想に走った信者の気持ちを理解することはできないだろう。

 私は、私有財産制が幸福を得る唯一の手段であるとは思わない。むしろ、私有財産制におけるそういう傲慢な態度を改めるべきである。でなければ、再度オウムのような集団が現れると、あいかわらず我々は「私有財産制を脅かす奴ら」として淘汰していくわけである。そこには、「何故彼らが発生するのか」という疑問をあまり深く考えようとはしない構造(特性)がある。もうそろそろ、幸福というものを自由か平等かという二元論でとらえ、異質な社会の形成を既成社会は認める時期に来ているのではないだろうか。