森田ゼミ96年黒旗福助トップ

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 福助24号 
発行所 :Y.H.アカデミー
パトロン:森田ゼミナール様

〜求められる人間の幸福論〜  山路博之

 断っておくが、これから述べることが絶対ではない。「そんなこと言われなくてもわかっている」と思うのだが、どうもこのような断り書きをしておかないと不安になられる「御方」がいるらしい。だが、ここでその「御方」を詮索する気はまったくない。何故なら、これから述べるテーマの本質とはまったく関係ないからだ。

 さて、三度目の同一テーマによる投稿である。今回の結論は、「人間はまず平等を求め、続いて自由を欲する生物である」という主張である。果たしてこの結論は正しいのであろうか。以下でこの結論の是非を検討していく。

 まず、皆さんはカール・マルクスという人物をご存知であろうか。彼は、資本主義国家を分析することによって、共産主義国家の誕生を理論的に予言した人物である。共産主義をめざす国家など一つも存在しない当時において、カール・マルクスは共産主義国家の誕生を予言したのである。

 しかし、彼の予言は全面的に正しかったわけではない。何故なら、共産主義をめざす国家は、高度に発達した資本主義国家の崩壊によって生まれたのではなく、封建制を残し、経済的には遅れている後進資本主義国家の崩壊によって誕生したものであるからだ。故に、カール・マルクスによる共産主義をめざす国家誕生の過程の分析は間違っていたといえる。しかしながら、彼の理論の果たした役割には、はかり知れないものがある。

 例えば、先進資本主義諸国は彼の理論を学ぶことにより、巧みにその弱点を克服して福祉国家となり、それによって共産主義革命を未然に防いだ面があげられる。又、過程はともかく、世界に共産主義をめざすソ連邦が出現して、良くも悪くも世界中の国々を数十年にも渡って、戦争と冷戦の場へと巻き込んだ事実も存在する。

 だが、今ではそのソ連邦が崩壊し、冷戦が事実上終結したといわれている。私がここで疑問に思うのは、何故現代の政治学者や経済学者は、このような出来事(ソ連邦の崩壊等)を理論的に予言できなかったかである。現代はマルクスの時代と異なり、すでに共産主義をめざす国家がいくつも存在し、世界の中で大きな勢力と経済圏を形成していたのである。しかも当初から、日々その動きの中で矛盾の実態があきらかになっていたにもかかわらず、である。

 私はそのことの責任が、個々の学者にあるとは思わない。むしろ、学問の専門化にすべての責任があると考える。政治学も経済学も、専門化が進むことによって、人間の観察をなくしてしまったのではないだろうか。

 カール・マルクスは、人間を考え、社会を考え、そして経済体制を考えた。今の学問の分類でいえば、彼は哲学者であり、政治学者であり、社会学者であり、経済学者であり、そして、その理論をためす実践家でもあった。もちろん彼は、そんな分類などにはこだわっておらず、ただ社会全体の問題に真正面から取り組んでいたにすぎない。だから、当時の経済体制が人々の不満に火をつけ、それによって起きる動きが新しい経済体制を生み出すということを予言できたわけである。

 もっとも、彼が理論の基礎においた人間像は、不当な資本家の搾取に耐えきれなくなり、自らの幸せを求めて反乱を起こすという人間像であった。そういう人たちが、当時は貧しい国々に圧倒的にいたから、その人間像の把握は時代をよく反映するものであった。

 今の時点に立って分析すれば、極端に貧しい人々が求めた幸せは「平等(公平)」であろうか。たしかに、人は不平等なことには耐えられない側面がある。例えばどの子供たちも、他の兄弟姉妹同様に両親から平等に扱われなければ怒る。「平等」は、人の幸せの基本である。しかし、人間の幸せは、「平等」だけではない。人間は基本的に「自由」を求める。

 平等と自由が衝突した時にどちらを優先するかということが、最近アメリカの法学者の間でも論じられている。しかし、私はどちらを優先すべきかという議論の前に、人間は、平等と自由のどちらを先に求めるかという実態の観察が必要であると思う。そういう眼で見ると、人間は、貧しくておのれの生存がおびやかされるような状況の中では、平等を優先的に求め、そして生存自体が確保されると、平等よりも自由を求める生物であるといえる。

 子供の例でいったが、これは個々の人間と社会や国家との関係でも同じであって、生存がおびやかされている時は富の平等な分配を求める傾向にある。それが死活問題にかかわっている時は、暴力的手段によってでも平等な分配を確保しようとするのである。

 それが、マルクスの唱えた共産主義と、それを実現するための暴力革命の理論の根底にある人間像であり、それは「生存がおびやかされる時」という限定した状況のもとでは、正しい人間像であったと思う。

 ところが、全体の生活水準が上がってきて生存がおびやかされるというような危惧感が薄れてくると、人間はそれぞれの個性に合った自由な生き方を求めるようになる。これは、マズローの欲求五段階説を引くまでもなく、人間として当然のことである。

 つまり、そのようなレベルに達したにもかかわらず、なおも人間を平等確保のために自由を犠牲にするシステムの中に閉じこめておくと、人間は働く意欲を失ってしまう。食べることが確保され、それが働く意欲をかきたてなくなると、その次に働く意欲をかきたてるものは、自由(物質的豊かさから精神的豊かさまで、個人の価値観を満たすさまざまな自由)である。それをほとんど与えなかったソ連邦や東欧の共産主義国は、国民の無気力から経済が行き詰まって崩壊した。中国は、物質面での自由を保障することにより、国民の勤労意欲を引き出している。しかし、物質面での自由が確保された時、人々はさらに精神的自由を求めるであろう。中国には、乗り越えるべきもう一つの大きな変革が待っている。

 先進諸国がマルクスの予言した共産主義革命を避けることができたのは、社会福祉政策によって人々の生存を保障したためである。日本で、戦争直後の食べ物すらろくになかった時代には、大衆は時に革命前夜かと思わせる激しい闘争に参加していたが、経済状態がよくなるにつれて労働者は次第に政治闘争から身を引いた。同様に昭和40年代、金と現実的生活がなく理念と情熱だけで体制変革闘争を行っていた学生たちも、そのほとんどが闘争を終結した。このようにして社会が平穏になったのは、人々の欲求がその頃に、「平等」から「自由」に移ったからといえる。

 マルクスが誤ったのは、人間の「自由」に対する欲求の強さに関する評価であろう。彼も共産主義が完全に実現した時、平等になった人々は、あわせて自由を得ると考えた。それはまさに理想郷であるが、人間は平等にならなくても、とりあえず生存が確保された段階で公平よりも自由を強烈に求めたのである。だから、大方の人々の生存が確保された先進資本主義諸国では共産主義革命が起きなかったし、ある程度経済が伸びて人々の生存が確保された社会主義諸国は、共産主義を完全に実現する前の段階で崩壊したのである。

 政治学や経済学の基礎に人間を置くといっても、その人間像は複雑な価値観と欲求を持つ個々の人間ではなく、その時点で大勢として、「平等(公平)」と「自由」のどちらを求めているかという、おおまかな人間像である。政治も経済も大勢として動くものだから、おおまかにその二つの基本的欲求に着目するだけで足りると思う。

 しかし、そういう人間像すら基礎においていないのが、現代の政治学、経済学ではなかろうか。それがもし誤解であれば幸せであるが、そうでないとしたら、政治学者や経済学者は現在、東欧諸国や旧ソ連邦を構成した国々、中国、キューバその他の国の人々が、大勢としてどちらの欲求を求めている段階かを考察する必要があるだろう。そして、それがもはや「平等」ではなく「自由」であるとしたら、その欲求を満たす政治、経済体制に平和裡に移行していく処方箋を考案して、早急に示してほしい。

 今、世界の人々が政治学者や経済学者に求める最大の研究成果は、平和な体制移行過程の予言(分析)だと思う。もしも、目の前に理論的な予言が提示され納得のいくものであれば、私は今すぐに評論家気取りの文章に決別し、その予言の実践者になるであろう…。