森田ゼミ96年黒旗福助トップ

hukusuke  福助11号  
発行所 :Y.H.アカデミー
パトロン:森田ゼミナール様

音楽とのつきあい その4  川嶋直子

 もう4回目である。嫌になってきた方はとばしてしまっても結構です。私自身嫌になってきてしまったので。しかしここまで書いてきた以上、続けない訳にはいかないので頑張って書こうと思います(朝倉氏を見習って)。いつも読んでくださっている方々、本当に本当にありがとうございます。

 さて、はれて高校生になった私であるが、高校でも管弦楽部(私の高校では音楽部だった)に入ろうと思ってはいたものの、その下手さにあきれてしまってなぜか弓道部に入ってしまった。それまで続けてきた音楽をそう簡単にやめられる訳がなく、私は市の交響楽団に入ったのである。そこではモーツァルトの40番や大好きだったチャイコフスキーのバイオリン協奏曲、ベートーベンのロマンス、そして第9番をやったのである。前の3者は初めての演奏会の時に、後者は、冬の演奏会の時にそれぞれ演奏した。何よりも印象に残っているのは第9番である。よく年末に耳にする合唱つきのあの曲である。

 確かに弓道との両立は難しかった。今考えてみてもあの頃はよくやったと思う。弓道部も毎日練習があり(年中やっていた)、バイオリンは家に帰ってから弱音機をつけて練習していた。本当に我ながらよくやったと感心してしまう。その苦労があったからこそ、第9番の演奏が終わったとき、本当に感動したのだと思う。

 しかし、私にも体力の限界(とでも言うのだろうか)があった。学校も忙しい、弓道も忙しい、音楽も忙しいでは体がもたなかった。市の交響楽団をやめてしまったのである。そのことに関して別に後悔はしていない。本当にいい経験になったと思っているのだ。

 そこで音楽を断ち切れる私ではなかった。バカは死ななきゃなおらないというやつである。バカな私はバイオリンを習い始めた。わざわざ栃木から板橋まで習いに行っていたのである。そんなことを親に言える訳がなく、自分のお金で習いに行っていた。本当に今考えるとバカである。

 習っていた先生は市の交響楽団で知りあった人で、シティーフィルに所属している人である。たまに「題名のない音楽会」で見ることができる。相変わらず元気そうなので安心してしまう。

 話がそれてしまった。戻そう。

 お金というものは使えばなくなる訳で、私の蓄えも底をついてきた。親には言わず習っていたので財源がなく、習うのをやめなければならなくなってしまったのである。まあ、仕方がないことである。バイトもしていない高校生がそんなにお金を持っている訳がないのである。

 このようにしてバイオリンを習うのをやめたのであるが、12年間も音楽と付き合ってきた私が簡単に音楽を断ち切れる訳もなく、今度は授業の音楽に熱をあげるのである。

 もう本当に嫌になってきてしまった。しかし、まだ続くのである。
 今回もお付き合いをしてくださった方々、本当にありがとうございます。