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第二章 台湾 「台湾経験とは何か」

B94−604 戴

第三節 開発途上国からの「卒業」

開発途上国を卒業
 1984年、台湾の一人当たりGNPは3000ドルに達した。日本の一人当た
りGNPは1万ドルとなった。1992年に台湾の一人当たりGNPは一万ドルを
超えた。わずか8年聞で台湾は一大転換期を迎える事になった。
 経済面にとどまらず、政治、社会全般で大きな変革をともなった。経済発展に連
れて中間層が、政治的抑圧からの解放を求める圧力が出てきた。アメリカ市場への
輸出拡大によって生じたアメリカとの貿易摩擦は、経済の自由化を急速に進める要
因となった。

一、政治変化
 1986年11月の野党結成、1987年7月の戒厳令解除、1988年1月の
新聞発行の自由化、1991年12月の大陸選出議員の引退と中央民意代表機関の
台湾住民による代表選挙、そこでの野党の進出ができた。長い間の一党制変革を実
現した。

二、社会変化
 公害反対運動が頻発し、労働ストの解禁は賃金の大幅な上昇をもたらした。不動
産投機による地価の高騰は、公共工事の遅延や工場用地の払底現象をも引き起こし
た。投機熱を燃え立たせ、それが人々の労働意欲を低下させてしまった。

三、経済変化
 1984年には対米輸出比率は48.8%に高まった。1986年8月以降の台
湾元の上昇が原因となったのは、1980年代後半における経済の自由化、国際化
の主なものはつぎの通りである。

1)対外投資の急増
 1987年から5年間に190億ドルに及ぶ対外投資が行われた。投資先はタイ、
マレーシア、インドネシア、中国、アメリカに集中した。これらアジア緒国の台湾
からの投資承認額は、日本と肩並べる規模となった。

2)輸入自由化
 旧社会主義諸国との直接貿易が、1988年3月と1990年2月の二段階を経
て解禁されていった。中国大陸との貿易も、1985年7月には輸出について、ま
た1988年8月には(特定品目の)輸入について、それぞれ第三国経由に限られ
るようになった。

3)関税引下げ

4)対台湾直接投資の自由化

5)産業の自由化

四、国際的地位の向上
 中国が国際社会に復帰するにつれて、台湾と外交関係を有する国は減る一方であ
ったが、1988年から李総統は柔軟な外交政策により国際社会への復帰を図って
いる。1991年台湾は、中国と香港とともにAPECに加盟し、また、GATT
で台湾の加盟申請が審査されている。

第四節 直面する課題

 産業高度化のスピードアップに迫られている台湾経済が直面する問題のいくつか
を以下で取り上げ、それに対する台湾当局の対応をみてみよう。

一、労働集約的産業との決別
 台湾の労働集約を主体とする輸出は、1980年に一大転機を迎えた。その発端
は85年のプラザ合意である。この向かい風をのって、台湾の為替レートの上昇し
た。同時に労賃上昇により競争力を低下させた。

1)未熟練労働力の払底
 台湾の労働需給は、87年から逼迫するようになり、特に製造業の人手不足が深
刻になった。87年の281万人から92年には259万人に低下している。女子
従業者はサービス業に向かっており、そして、現場作業部門離れが著しい、このた
め3K業種を主に外国人労働者の導入が公認され、その範囲の拡大が進んでいる。
外国労働者の増加は、社会の摩擦の発生を懸念させている。

2)自前の輸出力の強化
 今まで台湾の産業家は先進技術の導入を自らの研究開発に求めるよりも輸入財に
依存する傾向であり、資本の早期回収を基本にしているためとされている。当局主
導による研究開発が重要と考えられている。このため、海外から高額の機械設備を
構入する際、買付条件に技術移転を求めることが多くなっている。また、海外のメ
ーカ‐との提携    航空機製造分野への進出が、当局が関与した形で模索され
ている。0EM方式による輸出が多いことに対しては、自社ブランド輸出業者に対
する奨励措置を設けている。

二、内需振興
 1990年から台湾の海外投資は中国に向けのは主流となり、その勢いは産業の
空洞化を防止の切札は、大規模な公共投資の実施である。

1)産業空洞化対策
 台湾当局は、民間投資の刺激により製造業の落ち込みを食い止めるため、93年
7月に「経済振興方案」を制定している。また、外貨の誘致策として台湾を多国籍
企業のアジアにおける運営センターに構築すべく金融業や海運業の振興を図ろうと
している。

2)インフラの整備
 70年代の「十大建設」に始まる6年1期とする計画がある。91年7月開始さ
れた国家建設六カ年計画は、台湾を先進国に向けて発展させるため大規模の公共投
資を行い、そして、・台北・高雄間の高速鉄道、第二高速道路、六大都市の新交通
システム、ゴミ焼却炉21基、第四原発、国民健康保険の安全実施などが含まれる。

三、中台統一問題
 長年にわたり敵対してきた中国との間で交流が本格的始まったのは、88年台湾
が大陸肉親への訪問を解禁したことが契機となった。そして、貿易や投資に計り知
れないインパクトをもたらした。93年台湾の対大陸輸出は全輸出の二割強を占め
ていった。また、大陸向け投資は92年時点で194億ドルと推計される。天安門
事件以来、中国にとって台湾からの投資は経済発展に欠かせない存在になっており。
中国側は台湾に対して「一国両制」による統一を呼びかけた。台湾側は三下主義
「接触せず、交渉せず、妥協せず」を打ち出してきた。しかし、93年4月両方の
政府の意向を受けて会議を行うまでにいたっている。中国側は、海峡両岸間の直接
「三通」(通郵、通航、通商)の解放を呼びかけて台湾に揺れさぶりをかけている。
直接通商などは台湾側の規制にも関わらず、すでに実態としてかなり広範囲に行わ
れている。

*渡辺利夫編『
アジア経済読本』東洋経済新報社。
  P.64〜P.74 本文より部分的に多数引用

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