森田ゼミ96年黒旗福助トップ

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 福助18号 
発行所 :Y.H.アカデミー
パトロン:森田ゼミナール様

見聞エッセー集  山路博之

【ゲームを楽しめない日本人】
 いつから日本人は何をやるにしてもすぐムキになるのだろうか。ゲームをやるにしても、必ず勝たねばならないという脅迫観念にかられて、熱くなってしまう。

 例えばディベートである。これなども、自分の弁論術を磨く一種の知的ゲームであり、負けても恥ずかしくもなんともないのに、「負けては恥辱、お家の恥」的な雰囲気で死にものぐるいでプレイする。まさに端でみているとそういう日本人の態度にはおかしいし、あわれでもある。

 たかだかゲームであるのに、どうもムキになる日本人…。何故だろうか。良くいえば、ゲームであっても決して手を抜かず、まじめに取り組もうとする民族。悪く言えば、ゲームも真剣勝負としてしか捉えられないなさけない民族である。

 そもそもゲームとは何であり、またその対義語とはどういうものか。いきなりこんな質問をして恐縮なのだがどうであろう。即答できる人はたいしたものである。私などは辞書を片手にその意味や対義語を探したものである。順を追ってその疑問を解明していくと以下の通りである。

 まず、ゲームとは遊びである。遊びとは、命令・強制・義務からするのではなく、自分のしたいと思う事をして、時間を過ごすものである。とすると、命令・強制・義務からする行為が、遊び(ゲーム)の対義語となってくる。つまり、子供であれば勉強であり、大人であれば仕事がゲームの対義語としてあげられる。

 また、別の見方をすればこういうふうな解釈もできる。ゲームとは機械的な行動によって支配されている。つまり、いくつかの法則に従って行うのがゲーム(遊び)である。ならば、機械的な行動でないもの、つまり法則に支配されない行為とはどういうものであろうか。人間の行動はどうであろうか。少なくとも人間の行動は、機械のようにパターン化された部分ばかりではない。いや、むしろパターン化できない部分の方が多いのではないだろうか。そうすると、ゲーム(遊び)という機械的な行動の対義語として人間の行動があげられる。

 では次にゲームは何故するのであろうか。先に述べたように、ゲームとは、「自分のしたいと思う事をして、時間を過ごすこと」である。だが、別の解釈で述べているように、ゲームという行為は「パターンという機械的な行動を人間が行うこと」である。つまり、「人間のしたいことはパターンという機械的な行動」となってしまう。つまり、「人間というのは命令や強制、義務といった制限がなければ自らを否定するような行動をする動物である」という仮説がえられる。

 こういう仮説が出てくると本当かどうかを検証したくて、「命令、強制、義務をすべて撤廃!」してどうなるのかという思考実験をしてみたくなる。極めてこの考えは危険である。何故なら、私の仮説が証明された時は、すでに人間社会はパニックで「そんな仮説が証明されて、だからどうなのよ!」というとんでもない状況になっているからだ。

 ゲームという行為を考察するにあたって以上のような仮説が出てきた。実はこの仮説(人間はゲームという機械的な行動によって自己を否定している)を打ち立てたのは自分が最初であろうとタカビーになっている。もし、この意見を述べている人や本があったら教えて欲しい。また、この意見(仮説)について賛否両論があるとおもうので皆様の投稿をお待ちしております。

 遊びである。では、ゲーム(遊び)の対義語は何なのか。そもそも、日本人の大半が。ゲームは普段の現実でたまったストレスを発散させるためのものと考えている。つまり、現実(本質)あってのゲームであり、ゲームをするための現実とは捉えていない傾向がある。そのため、ゲームをゲームとして楽しむだけのゆとりが、日本人にはない。要するに、