森田ゼミ96年黒旗福助トップ

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 福助21号 
発行所 :Y.H.アカデミー
パトロン:森田ゼミナール様

見聞エッセー集  山路博之

【ゲームに浸る人間】
 皆さんの中に、「ゲームをしている最中、ムキになったり腹を立てた経験」はないだろうか。私などしょっちゅうである。昔はカードゲームやファミコン等のTVゲームをムキになるまでよくやったものである。最近では、ディベートでよく熱くなる。このディベートとは、自分の弁論術を磨く一種の知的ゲームであり、負けても恥ずかしくもなんともないものである。それなのに、「お家の恥、負けてなるものか!!」といった感じで死にものぐるいでプレイをする。端で見ている連中にとっては、そういう私の行為は滑稽であり、しかも哀れに映ったことであろう。後から冷静に考えれば、「つまらん行為に熱くなったものだ」と思うのだが、その時は我も忘れて「何がなんでも勝つぞ!」とムキになっていたものである。

 「たかだかゲーム、されどゲームである」。私も含めてそうなのだが、日本人はたとえゲームであっても、すぐに熱くなってしまう性格らしい。これは何故だろうか。良くいえば、ゲームであっても決して手を抜かず、まじめに取り組もうとする民族。悪く言えば、ゲームであれなんであれ、真剣勝負としてしか捉えられない融通のきかない民族である。

 そもそもゲームとは何であり、またその対義語とはどういうものであろうか。いきなりこんな質問をして恐縮なのだがどうであろう。即答できる人はたいしたものである。私などは辞書を片手にその意味や対義語を探したものである。順を追ってその疑問(何故、日本人はゲームごときにムキになるのか)を解明していくと以下の通りである。

 まず、ゲームとは遊びである。遊びとは、命令・強制・義務からするのではなく、自分のしたいと思う事をして、時間を過ごすものである。とすると、命令・強制・義務からする行為が、遊び(ゲーム)の対義語となってくる。つまり、子供であればそれが勉強であり、大人であれば仕事がゲームの対義語になってくる。

 また、別の見方をすれば次のような解釈もできる。ゲームとは機械的な行動(パターン)によって支配されている。いわば、いくつかの法則に従って行うのがゲーム(遊び)である。ならば、機械的なパターンでないもの、要するに法則に支配されない行為とはどういうものであろうか。人間の行為はどうであろうか。少なくとも人間の行為は、機械のようにパターン化された部分ばかりではない。いや、むしろパターン化できない部分の方が多いのではないだろうか。そうすると、ゲーム(遊び)という機械的な行動の対義語として人間の行為があげられる。

 では次に、ゲームは何故するのであろうか。先に述べたように、ゲームとは、「自分のしたいと思う事をして、時間を過ごすこと」である。だが、別の解釈で述べているように、ゲームという行動は、「パターン化という機械的な行動を人間が行うこと」である。すると、「人間のしたいことはパターン化という機械的な行動」なのであろうか。すなわち、「人間とはゲームという機械的な行動を通して、一時的な自己否定を図ろうとする動物である」という結論が得られる。

 少なくとも、我々日本人はこの点(ゲームとは機械的な行動であり、人間性を無視した行為である)に気づかずにゲーム感覚に浸ろうとしている。そのため、ゲームという機械的な行動とそれを行う人間の行為との間にトラブルが生じ、すぐに熱くなってしまうわけである。そして、日本人のようにムキにはならないが、欧米人もゲームという機械的な行動を楽しんでいる。このことは何を意味するのであろうか。これは、人間とはゲームという機械的な行動を通して、自己を一時的に否定していること以外のなにものでもない。

 日本人のゲーム観念から以上のような結論が出てきた。いつものように、この結論(人間はゲームという機械的な行動を通して自己否定を一時的に図っている)を打ち立てたのは自分が最初であろうとタカビーになっている。もし、この意見を述べている人や本があったら教えて欲しい。また、この意見(仮説)について賛否両論があると思うので皆様の投稿をお待ちしております。