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経済哲学のすすめ!

ポパーの「三つの世界」を起点にして

二、第T世界

 第T世界における認識の性質を考察することから始めます。さきほど定義しまし たように、この世界は経済現象によって規定されている世界ですから、この世界で はいかなる認識もなんらかの形でこの経済現象に関わっていなければなりません。 それゆえ、この世界での認識の性質は、認識主観が第一義的に経済現象に関心をも つという認識の意図によって決められます。つまり、この世界の認識は、どのよう な仕方においても具体的経験のなかで認識をおこなうという意味での「実用的な」 性質を有していると言わざるをえません。この「実用的」という言葉は、さまざま な意味を含みますが、ここでは経済現象になんらかの形で効果を現わすという意味 です。もっと積極的に定義すれば、私達をとりまく「環境に適応する」のに役立つ ということです。「実用的」ということについてはこれ以上深入りしませんが、後 に「真理」という重要な問題がでてきますので、それについて一つだけ卑近な例を あげておきます。たとえば、経済交渉において、相手を説得するというとき、この 世界で用いられる経済理論の実際的効果は、相手方を説得しその理論通りの経済協 定をとり結ぶという経済現象から始まります。ここでその説得が成功するのは、そ の理論が「真」であるからだと主張されるかもしれませんが、しかしその主張には、 相手方もその「真」の内容について合意しているという条件が必要です。また、政 治的経済交渉では、交渉独特の駆引き、たとえば経済理論が交渉のレトリックとし て用いられるかもしれません。そして、いったん、その協定が成立すると、その後 の現実の経済状況はその協定に含まれていなかったさまざまな要因のために異なる 姿をみせることになり、お互いの経済理論のその後の検証は、容易ではありません。 また、検証されうるとしても、検証されるまでの期間人々は実際に生活をしており、 後で誤っていると検証されてももう間に合わないのです。それでは「真理とは、何 か。」という重大な問題が生じます。ここで、「真理」について私の立場をごく簡 単に述べておきます。通常、私達研究者が掲げています「真理」は、内容のない探 求の嚮導観念としての「真理」であります。つまり、固定した内容を備えた「真」 なるものではなく、いうなれば研究のさいの導きの星となる観念としての「真」な のです。これにたいして以下で述べます認識の評価基準としての「真理」は、それ ぞれの世界でその内容をもっています。そして、探求の嚮導観念としての「真理」 は、三つの世界すべてに適用される「内容のない」真理なのです。

 この世界での真理基準を定式化するまえに、この世界における「客観性」を考察 してみましょう。というのも、この世界での「客観性」を考察することが、この真 理基準を導出することになるからです。

 経済学でしばしば論争される一つの例から始めてみましょう。たとえば、「ある 政策介入によって、失業率が変動する」という予測的言明は、現実にその政策が採 用され、その結果、失業率が変動したという結果を得たとき、この言明の客観性が 証明されたといわれます。しかし、「その政策の採用」ということについては別と しても、「変動した失業率」の客観性は、どのようにして認識されるのでしょうか。 これには、「失業とは、何か。」と、「どのような状態が、変動したと呼ばれるか。 」ということに関して、認識主体の側での合意がまえもってなされていなければな りません。どのような状態を「失業」とみなすかによっても、またどのような変動 を「意味ある変動」とみなすかによってもこの言明の証明は異なってきます。経済 現象の客観性は、このようにしてこの世界で一見して容易に手にいれられるとおも われる物理的な客観性ということからはほど遠いのです

 しかしながら、このような論議はむしろ第U世界の問題であって、経済現象に直 接携わっているこの世界の認識主観には、このような普遍的な問題は重要な意味を もちません。それよりも、自己の属しているその共同体で、既に成立している「意 味内容」についての合意のもとで、経済現象の変化が判定されればそれで十分なの です。そして、ここでは、たとえ条件つきであっても、「実用的」という客観性は 保持されるのです。そして、この条件としての合意とは、共通の「意味内容」とし て、実は、第U世界からこの世界にあたえられたものなのです。

 しかし、合意された現象だけが、この世界のすべての現象ではありません。理物 的な経済生活から形成される概念もあります。われわれの生活における経済現象を 直接指示する概念を「経験概念」とよぶとするならば、われわれの実践的な経済生 活から、このような概念をわれわれは手に入れることがあります。しかしながら、 言語上の厳格さでもってまったく純粋な経験概念が存在するかどうかを尋ねるなら ば、結局は、指示代名詞だけが残ることになります。しかしわれわれの生活実感に 近い概念が存在することは確かです。そしてそれらの生活実感に近い概念は、往々 にして既成の合意にたいする変則事例(anomalies)として認識されます。つまり、 既成の合意からのズレとして意識されるのです。

 ところで、認識するということはただ単に知覚するということではありませんか ら、認識はその認識の意味と同時になんらかの論理性をもとうとします。この論理 性は、第V世界からあたえられます。つまり、第T世界における経済現象の論理的 認識は、第V世界からの論理的認識手段によって遂行されるのです。

 ここで、この第T世界についての結論を述べておきましょう。

 第T世界における認識の性質は、現象の即物的な認識という意図のもとで、認識 の実用性を主題とするということです。このことを端的に表現すれば、「認識者の 実践」ということになるでしょう。それゆえ、この世界での認識は、実用性という 真理基準によって評価されます。そして、この世界は他の世界と次のような相互作 用を有しています。第T世界は、第U世界から「意味内容」を、第V世界から「論 理的認識手段」を供与されると同時に、それらの世界の概念を、実用的明証性とい うテストにかけることになります。

浦上博逵「経済学再考」『現代のエスプリ 経済学:危機から明日へ