浦上ゼミトップ

経済哲学のすすめ!

ポパーの「三つの世界」を起点にして

四、第U世界

 これまで第T世界・第V世界に「意味内容」をあたえてきた第U世界とは、一体、 何でしょうか。以下で、それを考察します。

 この世界の基底は、われわれの経済生活は生存という事実であり、われわれの生 存はその存在理由を求めている、ということです。つまり、社会的人間というもの は、ただ一人で、しかも直接に物理的自然と直面しているような存在ではなく、い ついかなる場所においても「社会的に生きる」という意味内容に充満した、社会的 時間と社会的空間のなかで生活しています。そして認識主体の抱くこの意味内容は、 価値を含んだ世界観として具現されます。この世界観は、純然たる思惟の所産でも なければ単なる認識意志から生ずるわけでもなく、さりとてまったく物質的なもの によって規定されているわけでもありません。つまり、世界観は、そうしたものを ないまぜにして、認識者の社会的な生活態度や生活経験から、意志という精神全体 の構造をつうじて生ずるのです。とくに、この世界を経済的なものにかぎるならば、 「生きる」ということの意志は、われわれの経済的な生活態度や生活経験を「生き るにあたいするもの」として意味をもたせることになります。しかしこのことは、 生活態度や生活経験という現象の世界、つまり第T世界のなかだけでは達成されま せん。なぜなら、現象は、いつも個別のものとして現われるのであって、統一体と して現われるわけではないからです。意味は、「統一」ということを必要とし、「 統一」は、精神を必要とします。言葉をかえて説明すれば、現象としての個別的現 実経済生活から、意味の統一体としての世界を醸成するためには、普遍性を目指す 価値の形式において、統一化がはたされなければならないのです。ここに形而上学 的性格をもつ世界観が、立ち現われてきます。いま、このように意味の統一体とし ての価値を含んだ概念を、形而上学概念とよぶとすれば、世界観は、この形而上学 概念として表現されます。経済学の世界での形而上学概念は、ある哲学運動が主張 するような、決して忌み嫌われ破棄されることを要求されません。むしろ、それは、 社会において、ある時期のある場所での社会を構成する紐帯物としての機能をはた します。破棄されるのは形而上学概念全体でなく、特定の形而上学概念です。

 経済学のなかでの形面上学概念の例を、いくつかあげておきましょう。古典派お よび新古典派の主張する「正常的均衡状態」を基底にした「自由競争」や、ケイン ジアンの主張する政策目的としての「完全雇用」はその典型的な事例です。また、 マルクス経済学において「抽象的人間労働」という「実体」を必要とする「投下労 働価値」も同じ身分のものです。それらの概念はすべてなんらかの価値を付着して います。そして、それらが社会的に合意されているということは、われわれの生活 様式がそのように価値づけられているがためです。

 こうしたことは、経済学における研究者共同体がいかにして構成されているかを 考察してみるならばもっとはっきりします。

 「社会」という言葉を共同体という言葉に換えてみますと、形而上学概念は、共 同体を成立させるために必要な構成原理を示します。そして研究者共同体は、「何 を、研究の主題とすることに価値があるか。」によって組織されます。この「主題 」は、いわゆる研究綱領に相当し、その研究綱領が形而上学的性質を有しているの です。たとえば、ある研究者共同体が合理的個人主義を標榜するならば、その共同 体の構成員にとって「ホモ・エコノミカス」や「自由競争」が形而上学概念となり ます。もちろん、すべての研究者が研究の当初からこのような形而上学概念を世界 観として携えてその共同体に加入するということではありません。ある共同体に属 する機縁はまったく多種多様ですので、それはむしろ偶然といったほうがよいかも しれません。しかし、ひとたびこの共同体の構成員になってしまえば、そこでの世 界観を自己のものとするのです。

 このように、私の図式では、研究者共同体の形而上学概念を直接の分析対象のひ とつとしてとりあげることになります。その理由は、その研究者共同体の形而上学 概念というものは、われわれの経済生活のなかから醸成された形而上学概念とは独 立した、第U世界だけの内的な成長メカニズムを別にもっているからです。ここに、 現実の生活様式に根ざしたあたらしい経済的世界観を提唱する必要性が存在するの です。その一つの例として消費者行動の理論をとりあげてみましょう。

 新古典派の想定する消費者は、個人は独立した効用表を有しその「羅針盤」(〔 6〕13頁)の指示に従って行動するのです。それゆえ、各人の消費関数の単純な 加算が市場全体の消費関数になります。しかし、私達の現実の生活様式では、「レ ーダー」(〔6〕21頁)によって私達が属しているなんらかの「グループ」とた えず情報をやりとりしています。ここでの「グループ」という言葉は適当な表現が 見当たらないための一時的な用語ですが、それは、経済主体がなんらかの行動を決 定するさいにそれぞれの行動に即して、−−その「グループ」が明確なものにしろ 漠然としているものにせよ−−自己が属していると考えている「グループ」の行動 を意識するというような「グループ」のことです。消費者行動の分析でいえば、そ の「グループ」として同じ世代とかまた同じ所得階層の人々とかの「グループ」が 考えられます。その「グループ」がなにであるかは分析の目的によって異なります。 そして、一見個人主義が徹底しているかにみえる現代の私達の消費行動は、市場全 体を構成する部分としての「グループ」から情報をうけとりながら、各人の効用表 を修正しそれにもとづいて消費行動をおこない、そしてまたこの個人の行動した結 果がその「グループ」の消費行動を構成するというような相互関係のもとでおこな われているのです。このため、市場の消費関数は単純に個人の消費関数を合計した ものにはなりません。丁度、個としてのミクロ決定と全体としてのマクロ決定との 間にこのような「高分子」に相当する「グループ」という中間決定がおこなわれて いるのです。こうしたことは、生産などの他の分析についてもいえます。この間の 詳細な議論はここでは省きますが、新古典派の世界観を「競争型個人主義」である とするならば、現代の私達の生活様式に基づく世界観は「調和型個人主義」という ことになります。そしてまた、このような世界観のもとでの理論化は、他の分析た とえば「環境破壊」や「国際経済摩擦」の分析への有効な手段を提供することによっ ても、私達の生活様式からその実用的明証性をうけとることになるでしょう。

 結論として、この世界の認識の性質を、前者の二つの世界とおなじように表現す れば、第U世界における認識の性質は、世界観を追求するという意図のもとで、認 識の意味を主題とするということになります。そのことを端的に表現すれば、「認 識者の価値」ということになるでしょう。そしてこの世界での認識は、意味という 真理基準によって評価されます。また、第T世界は経済生活の「現象」を、第V世 界は「論理性」をこの世界に供与すると同時に、この世界は、それらの世界のなか で生じた概念を意味的明証性というテストにかけることにもなります。

浦上博逵「経済学再考」『現代のエスプリ 経済学:危機から明日へ